【新刊紹介】 池坊専好・矢嶋孝敏(2017)『いけばなときもの』三賢社

 矢嶋さんの4冊目の著書は、生け花の御師匠さんとの対談。このところ、矢嶋さんは年1~2冊のペースで本を出している。一昨年、ゼミの課題図書に指定した『きものの森』、全国の産地と社員さんが登場する『つくりべの森』。学習院大学の伊藤元重教授との共著『きもの文化と日本』。

 

 どの本も、矢嶋さんが商売で扱っている着物(きもの)を素材に、文明と文化のちがいを説いている。日本は温泉の文化、西欧はシャワーの文明。自然のなかで、すこし遠回りで無駄なプロセスを楽しむ日本人。効率と便利さをとことん追求する西欧人。とくに、最初の著作『きものの森』では、西欧文明に対比して日本文化の優れた点を論じていた。

 対談形式にはなっているが、今回は矢嶋さんがインタビュアーの位置づけになっている。対談相手の池坊専好(せんこう)さんに、花をテーマに日本文化を語ってもらう。そんな趣向で対談は進行するのだが、彼女は、いずれ池坊の家元になる方で、着物姿がとても美しい。

 めずらしく、この本は、二度読んでから感想文を書いている。とても良い本なのだが、案外と「芯の部分」がつかみづらい。なぜなら、日本文化に固有の「見えないもの」、たえば、こころ(心を配る)や、おもてなし(相手に寄り添う)が話の中心に据えられているからだ。

 人と人を媒介するものとして、いけばな(花)も、きもの(着物)も存在している。花(いけばな)も布(きもの)も人々をつなぐ「コミュニケーション手段」と解釈されている。

 

 とりあえず、「もくじ」を紹介しよう。本の装丁のせいなのか、ひらがなで「もくじ」と書いてしまいたくなる。表紙は、薄桃色の厚紙の和紙。デザインは、きものを着て花を生ける女性のイラスト。生けているのは、三種花。

 

 はじめに (矢嶋さん)  

 一 日本の伝統文化

 二 日本人と自然、季節

 三 いけばなときものの変遷

 四 いけばなに学ぶ、日本の美意識

 五 いまを生きる私たちのために

 あとがき (池坊さん)

 

 本書を二回目に読んだとき、気になった頁に「折」を入れておいた。なぜ、気になったのかを解説してみる。

 

 

1 <DNAに刻まれた美意識>
 42頁に、こんなくだりがある。

 

(矢嶋) 新入社員に「どうしてきものの仕事を志望したの?」と聞くと、特に女子の多くが、「祖母が着物を着ていて、ずっといいなと思ってきた」と答える。

 着物も生け花も、日本人の生活文化に根付いていた習慣だった。かつてはそうだったのだが、洋風の便利さに駆逐されて、特別にものになりかけている。しかし、子供のころの風景を思い出すと、そこには、着物を着るおばあちゃんや、いけばなを生ける楚々として女性たちの姿がある。いまはなくなった習慣だが、遺伝子に組み込まれている習慣は、復活の可能性があるのでは?と思わせる。
 ここで矢嶋さんのおもしろい指摘がある。日本の生活文化の遺伝子を受け継いでいる世代から、「おもしろいことに、「母親の世代」が抜けているんです。年齢で言うと、55歳から65歳。男はアメリカ文化、女はフランス文化にどっぷり浸かっていたから。」(43頁)
 たしかに、わたしたちの上の世代(団塊世代)は、まさに日本文化を劣位に見る傾向がある。欧米文化の礼賛。しかし、今の若者は、外に出ない!と言われているが、隔世遺伝で日本文化が新鮮に見えている。

 

2 <文化が成熟する国・日本>
 二人が談じている『文化の成熟理論』がおもしろい。日本の地理的な特徴から、香道(お香の文化)、華道(いけばな文化)、陶芸(器を焼いて楽しむ文化)や装道(着物を着る文化)が生まれた。そして、シルクロードから流れてきたものが「吹きたまる」のが、島国日本。そこから先には流れて行きようがない。だから、日本で文化が独特の形で成熟する。
 (専好) 「(文化が)ここで進化したり成熟するしかない。そういう地理的な条件も大きいし、あとは気候的な条件も大きく影響したと思うんです。」(49頁)
 矢嶋さんは、これに応えて、「山や川、海に恵まれて、植生もこんなに小さな島国なのに多種多様。北海道から沖縄の島々まで、四季折々の植物の多さは特別です。」(50頁)
 いけばなでは、一木一草を愛でるが、その一木一草の選択は多様な植物相の中から選ばれる。気候条件により日本は植生に恵まれているからだ。きものの文化も、素材の豊富さと加工の技術成熟に依存している。
 日本の文化は、そういう意味では、稀有な条件の上に成り立っていることがわかる。その極致が、きものと花である。

 

 

3 <型は合理的な道案内>(135頁)
 きものもいけばなも、「型」を大切にする文化・芸事である。矢嶋さんのウイットに富んだ指摘。歌舞伎の故中村勘三郎さんの言葉を引用して、「型がないと形無しになる。型があるから型破りができる」(136頁)。
 (矢嶋)「日本の武道や芸事では「守破離」(しゅはり)という言葉があるけど、まずきちんと型を守る事ができなければ、破ることもできないし、そこから自由の境地に至ることもできない。華道、茶道だけでなく、剣道、柔道、書道でも、日本の「道」には「型」が欠かせないし、それをすごく大事する文化がありますね。」
 見えないものを大切にする文化について、専好さんの一言。
 (専好)(父親のことばを引用して)「上品な服を着たからって上品には見えるわけじゃない、気品のある花を使ったからって、作品に品格が表われるわけではない。」(136~137頁)
 つまり素材のすばらしさを結果につなげるには、途中のプロセスが大切であって、そこは見えるものでは説明ができない。しばしば最近は、「暗黙知」を否定的な論じることが多いが、おふたりは、むしろ、見えないルールを大切にする派なのだろう。わたしも、この頃は、そちらに傾斜しつつある。
 見えるものだけで世界を語るのは、なんかつまらない。語りや記述に奥深さを感じられない。「形式知」を重視する欧米文化から否定的にとらえられる「暗黙知」の再評価を。

 

 最後に、この本でいちばんおもしろかった対談部分を紹介して、書評を終わることにする。和服と洋服の違いについて。

4 <ひと手間、ふた手間かける>
 (矢嶋)「いけばなもお茶も、きものもそうなんだけれど、みんな面倒くさいことなんですよ。だって、Tシャツとジーンズなら何も苦労せずに簡単に着られるわけだか」(39頁)。
 いつでも同じになる、着方を考えなくてもよいのが洋服。和服(きもの)となるとそうはいかない。一枚の布を帯で締めて体に巻くわけだから、そのときの気持ちによって、形がちがってくる。一定しないし、安定しない。
 このことを「着物は、一期一会」とお二方は表現している。たしかに、着物は「着るプロセス」とそのときの気分によって成果(美しさ)がちがってくる。だから、芸術の要素が加わるのだ。粋に着こなすこともできるし、だらしなく羽織ることにもなる。
 洋服と和服は、これほど性格がちがう服装なのだと納得したしだいである。