書評:岡本重明『農協との「30年戦争」:誰もかけなかった巨大組織の「闇」』文春新書(★★★★)

 インパクトのある書名である。タイトルの魅力だけで、1万部は売れた本だと思う。しかし、内容はいたってまじめである。著者の岡本重明氏は、父親の急死で大学への進学が叶わず、普通高校を卒業してから農業の道に入った。電照キクの栽培からはじめたので、花の業界でも名前を知る人が少くない。


ご自分の体験から、日本の「農協」の問題点をえぐった作品である。
 タイトルにある「戦う30年」という期間は、ご自分が農業をはじめてからの年限である。幾度となく挫折を体験しながら、経営危機を乗り超えてきたいばらの道のりは、本書を読むことでよく理解できる。岡本氏の行く手を阻んだ勢力が、農協組織と農協の職員だった。書かれている挿話はおそろしいが、脚色が混じっているとは思えない。すべて実話であろう。

 日本の農業は、マッカーサー元帥が指揮したGHQの農地解放(財閥解体とセット)によって、戦後、その成り立ちを変えるはずだった。少数の大地主たちによって占有されてきた農地の所有権は、1945年をもって多数の小作人に解放された。岡本氏の立場を代弁すると、自由に耕作できるようになったにもかかわらず、新しく農地を区分所有するようになった地主たちは、自分たちの土地から産出される作物を販売する自由を持つことができなかった。
 農地解放によって、なにも変わることはなかった。これを「制度の問題」とみるのか、農民たちの「意思の問題」とみるのかは、本書を評価するときの分岐点になるだろう。
 両方の視点から、本書は書かれている。現在の日本農業の低生産性と後継者不在、未来に対する展望のなさは、農民たち自身のふがいなさに由来している。農地解放は、明らかにチャンスだったが、天から降ってきた改革の機会を、農民たちは自らすすんで利用しようとしなかった。
 結局、物言わぬ「和を尊ぶ日本の民たち」(岡本氏の表現)は、農協組織によって再びからめとられてしまうことになる。「戦前の大地主制度が、戦後は農協組織に置き換わっただけである」という岡本氏の分析は、きわめて正当に読める。体制が錦の御旗に掲げていた、建前としての食料自給率向上や環境保全型農業の欺瞞が透けて見える。
 著者の攻撃は容赦なく続く。官民癒着の構造、政治と農協組織の暗黙の談合。巨大な金融組織(農林中金)と商品の販売と金融を仲介する農協組織の結託。さらには、輸送業者や資材業者と結びついて、物流と農業資材の調達を組織に委ねることを黙視してきた農民たちの怠慢。
 その背後には、自民党政治と結びついた補助金制度があった。温室も圃場整備も集出荷設備も、政治のバックアップがなければ、何一つ実現しない。農業予算を配分するコントロールタワーを、農協組織が担ってきた。この構造が、本書では実話をもとに詳細に描かれている。

 以下は、評者の感想である。
 おそらくは、日本の農協組織が現状に対してすべての責任を負っているわけではないだろう。しかし、せめて欧州の地域農協のように、生産者組織が自力で商品を販売する努力ができていれば、日本の農協組織に対する悪評もかなりちがった性質のものになっていただろう。
 例えば、デンマークの「ガザ」やスイスの農協組織、オランダの「フラワーカウンシル」は、農民のために、欧州域内で、あるいはグローバルに、消費者市場を開拓してきた実績がある。それでも、最近になって、一部の補助金が組織維持のために使われている実態が判明した。そのことから、欧州でも、日本に比べてはるかにうまく機能しているはずの組織に対して、その有効性がきびしく問われはじめている。
 最近、評者は、農産物(花と野菜)の国内生産・流通コストを調査している。そこで見るデータは、じつに岡本氏の指摘通りである。作物の集出荷段階からはじまり、中間流通のそれぞれの段階において、わたしたちがこれまで知りえなかった「収奪」が起こっている。不必要な中間搾取が、これまで組織的に行われてきたことが立証されてしまった。
 きちんと組合員メンバーのために働いている農協と農協職員の存在を、評者は日本全国で知っている。だから、残念ながら、こうした動きを主導してきたのは、農協組織と卸市場の「制度」だと伝えざるをえない。「人間」の問題ではなく、こうした事態を引き起こしているのは、社会的な「制度設計」の失敗なのである。
 わたしは、日本農業の最大の問題は、これまでは「土地制度にあり」と主張してきた。しかし、流通コストと農業補助金(生産システム)を天秤にかけるとしたら、より深刻なのは、流通のほうかもしれないと思うようになってきた。国際競争に負けてしまうのは、日本農業の低生産性に原因がある。そんなことは誰でも知っている。だから、農業部門の生産性を改善するのは、それほどむずかしいことではない。課題の順番に、それぞれの部分(パーツ)から手をつければいいからである。
 ところが、国内の流通システムと商流を作り直すのは、そんなに簡単なことではない。それは、インフラを変えることである。取引制度など、従来型の仕組みを丸ごと御破算にしようとすることである。切り替えられるのは、ハードだけでない。取引関係や人間関係にも手をつけなければならない。根本から既存の仕組みを壊すことである。

 政治に連なる農業の問題は、根が深い。
 岡本氏が苦汁をなめてきた「30年の間」とは、高度経済成長の後、日本の農業が革新の機会を求めてさ迷っていた時代である。かつて既得権益を手離さなくて済んだ農村社会では、制度そのものに異を唱えることはむずかしかった。それは、岡本氏のように、勇気ある変人か、良心的な個人しか、なしえなかった愚かなる行為であった。
 そう考えると、岡本氏のような人間が、正々堂々と制度に対峙することが許されるようになったことは、日本の農業が変わる兆しでもある。今度こそ、政治と官僚に農政で失敗してほしくない。なぜなら、次の制度設計の成否は、わたしたちの孫子の世代において、日本人の食の豊かさと安全、そして、健全なる国土と環境の保全が確保できるかどうかを決定づける。
 民主党が公約した農家への「戸別所得保障制度」(正しくは「戸別補償制度」なのだが、皮肉の意味で「保障」と書いている)は、まっとうに農業を営もうとしている専業農家からは、どのように見えるのだろうか? 労働組合的な保障制度の枠組みでは、日本の農業の低生産性を解消することはできないだろう。ましてや、耕作放棄地を減らして、環境保全型の土地利用制度に移行させることもできないだろう。農業を推進させるインセンティブが、まるっきり後ろ向きである。
 夏以降の政治の舞台で、わが国民は、こうした争点に対してどちらの旗になびくのだろうか。自民党の農政はひどかった。しかし、民主党の農業政策はもっとひどい。代替案が出てこない。聡明な官僚は、すでに問題点を喝破している。そうなのだが、いまや声高にそのことを叫んでみても、混乱と紛糾の報道によって売上を稼いでいるマスメディアは、賢明で正当なアイデアには興味を示さない。