マーケティングの未来を振り返る(仮)/HDB3冊同時書評(上)

「ハーバード・ダイヤモンド・ビジネス」(2001年11月号)編集部からの依頼で、マーケティング書を3冊同時書評することになった。本日は、一冊目(パコ・アンダーヒル著『なぜこの店で買ってしまうのか?』)を紹介する。明日は、残りの2冊を紹介する。



 <「ショッピングの科学」の誕生>
 1999年11月、フィラデルフィアでの仕事を終えて、成田行きのノースウエスト航空の接続便を待っている間のことである。ミネアポリス空港の書店で、一冊の本が目にとまった。その後、全米のビジネス書でベストセラーになったパコ・アンダーヒル著『なぜ、この店で買ってしまうのか』である。この本は、今年の春(2001年2月)に早川書房から翻訳が出て、日本でも十数万部売れていると聞いている。
 翻訳が出る前に、帰国した翌週から授業のネタ本として、また、企業向けの講演会などでうまく活用させてもらっている。原題は、’Why We Buy?: Science of Shopping’である。さすがにミステリー書翻訳の老舗・早川書房である。副題の「ショッピングの科学」をタイトルとしなかったところがすごい。帰りの飛行機の中でむさぼり読んでしまったほどのおもしろさは、実はその辺に転がっているビジネス書を超えたところにある。
 社会/文化人類学者からマーケティング・コンサルタントに転身したパコ・アンダーヒル氏は、「エンヴァイロセル:EnviroSell」という調査会社を率いる創業者社長である。社名を意訳すると、「商品がよく売れるように買い物のための環境を調査する会社」となる。アンダーヒル社長の方法論については後に詳しく述べるとして、そのメッセージは秀逸である。調査員が店頭に立って消費者の動きをじっくり観察してみると、ブランドは思ったほど購買の最終決定にとって重要な要因ではない。広い意味での買い物の環境デザインが、小売店の売り上げを決定的に支配している。
 この結論は、ふたつのメッセージを同時に発している。大手広告代理店と会計コンサルタント会社に主導された、企業経営者たちのブランド偏重の風潮に冷水を浴びせていること。この点については、後段で「ブランド論」を普及させる大きなきっかけとなったデービッド・アーカーの著書『ブランドエクイティ戦略』(ダイヤモンド社)を紹介することにする。ふたつめは、かつて「フィールド・マーケティング」(店頭マーケティング)の研究者が、「衝動買いがどのようなメカニズムで起こるのか」を理屈として十分に説明できなかったことについて、彼の素朴な観察法が立派な解答を与えてしまったことである。

 <行動主義的消費者理論の成果>
 約20年前に、米国の大手パッケージ商品メーカーは、流通業者の協力を得て大がかりな店舗実験をした。ワンセット数百万円もするアイカメラを肩に担いでもらって、買い物客の目線の動きを追跡したが、「消費者情報処理理論」(ハワード&シェス、ベットマン)をリサーチ上の礎石とした試みからは、マーケティングの実務に対してそれほど役に立ちそうな事実が発見できなかった。それが、メモ帳と録音機をもって調査員が店頭に立ち、一日中買い物客の行動を観察して記録するという、決してスマートな方法ではない店頭調査の結果から、おもしろい知見が山のように出てきたのである。
 例をあげてみよう。アンダーヒル氏の有力なクライアントであるマクドナルドでの店頭観察によれば、標準的なファーストフードの店舗では、注文してから商品が出てくるまでの待ち時間は平均1分40秒である。釣り銭を受け取ったあと手持ちぶさたになった顧客の75%は、注文を終えたあとも店内の案内板やメニューボードを読んでいた。1分40秒もあれば、人間はかなり長いメッセージを読むことができる。カウンターの上にあるメニューボードや店内案内板の役割は、顧客のオーダーを補助するためだけに存在しているわけではない。顧客が次回に来店したときに、マクドナルドとして是非ともオーダーして欲しい、新しいプロモーション・メニューについての情報を提供することにも有効であることがわかる。メニューボードと案内板のレイアウトと表現が改善された。
 これはほんの一例である。たとえば、試着室に持って入ったジーンズを実際に買う割合は、男性で65%、女性は25%である。また、ショッピングモールの家庭用品の店で、客が買い物カゴを使う割合は8%、カゴを使う客が実際に品物を買う割合は75%、反対にカゴを使わない客が品物を買う割合は34%であった。エンヴァイロセルの推奨にしたがって、男性用の試着室はもっと利用しやすく目立つ場所に移動された。どういう形であれ、とにかく来店した客の手にカゴを握らせてしまえばお店の勝ちである。そのために、入り口にまとめて置いてあった買い物カゴが、店内に分散して配置された。
 人間観察からの結論。消費者は物事を合理的に考える人間である前に、環境に反応して瞬間的に行動する動物である。見て、聞いて、嗅いで、触って、味わって・・・人間は五感を通して感じて行動する。アンダーヒル流の観察実証主義を、筆者は「行動主義的消費者理論」と呼ぶことにする。この流れは、マーケティング理論の歴史のなかでは、おそらく異形であり傍流であった。しかし、将来的には、有力な方法論になりうる可能性を秘めている。事実、「参与観察」「フィールドワーク」「ポストモダン・マーケティング」など、パコ・アンダーヒル氏を育んだ社会学や文化人類学を基礎とした観察法やデータ記録は、マーケティング・リサーチでは本流になりかけている。(下に続く)