1985年7月13日の「ライヴ・エイド」(史上最大のチャリティコンサート)の実写版で、クイーンの演奏を視聴している。映画と同じスタイルで演奏しているフレディ・マーキュリー(本人)の演技と音声を、21分間通して聴いた。もっとも、本物のクイーンのパフォーマンスが映画の先なのだから、この表現はちょと変かもしれないが。
映画評論家のコメントでは、この作品に対する違和感が述べられているものも多い。たとえば、人見欣幸「『ボヘミアン・ラプソディ』現象化への違和感、クイーンは愛すべき『変なバンド』だ」(2018/12/08 5:40『東洋経済オンライン』から配信)など。それは、あの時代のど真ん中にいたBigFun集団の正当な意見なのだろう。
しかし、この作品についていえば、劇中のストーリーが史実と違っていることは問題にならないだろう。なぜなら、クイーンの現バンドメンバーのふたり(ブライアン・メイとロジャー・テイラー)が、映画の音楽プロデューサーを引き受けているからだ。あの時代の熱気と仲間の友情が確認できる作品に仕上がっていれば、細かな筋のちがいなどは許容の範囲だろう。
フレディ役のラミ・マレックは、本物のフレディとはちがってずいぶんと小柄だ。男前の度合いとなると、本物のほうがかなり上質だと思える。とはいえ、同じ時代を生きたクイーンの熱狂的なファンでも、映画がはじまって5分もすれば、そんな些細なちがいなどすぐに気にならなくなる。
高校から大学にかけて(1968年~)、ブラスバンド部でキャプテンを務めていたこともあり、わたしはクラシック派だった。クイーンが活躍していた時代(1971年~1991年)は、大学院で研究者として独り立ちしなければならない時代に重なっている。だから、結婚して三人の子供がいたわたしにとって、ロックコンサートは荒くれ者たちが集まる別世界のイベント(出来事)だった。
ところが、時の流れは、人の生き方や他者に対する感じ方を変えてしまう。同じく、この映画を観た友人がいみじくも言ってくれたものだ。「年齢とともに、人の一生に対する感じ方が変わって、より深くなりますね」。そうなのだ。その女友達も早婚で子育てに忙しく、クイーンのよき時代を知らない仲間のひとりだ。
その時代にクイーンを知っていたかどうかは、本質的なことではない。別の形でその時代の風を浴びていたかどうかが問題なのだ。ロックミュージックでもクラシック音楽でも、パフォーマンスアート(舞台芸術)全般に対する感じ方は、年を経ることで変化していく。経験を積み重ねることで、若い時には見えていなかった真実に気づくことも多くなる。
わたしたちは、フレディ・マーキュリーが45歳で夭折してから27年後に、彼を主人公にした映画を通して”ロックンロール・ミュージック”に出会ったのだとわかる。あるいは、67歳にしてはじめて、「心を揺り動かす(ロック)」音楽を発見したのかもしれない。
ボヘミアン・ラプソディは、そうした観点から観賞するとまた別の見方ができる。たとえば、LGBTや移民、弱者に対してシンパシーを抱く寛容な時代に生まれてきた若者たちは、われわれ世代とは世の中を見る視線がちがっている。社会的な偏見についての常識も変わっている。いまやゲイやレズビアンを、変な虫眼鏡で見る必要もない。
ストーリーは、貧しい移民の子供(フレディ)が、ボーカルを失ったばかりのバンド仲間(メイとテイラー)と出会うところから始まる。その後、バンドはロック音楽の常識を破って、数々のヒットを生み出す。
歴史的には、日本での成功がクイーン伝説の出発点とされている。それは正しいのだろう。サークルの外側にいたわたしでさえ、「伝説のチャンピオン」や「We Will Rock You」などのリズミカルな曲想を覚えている。グローバルなツアーは大成功を収めて、彼らは一級のロックスターに上り詰める。
ところが、仲間と成功をつかんだはずのフレディは、孤独と絶望の淵に落ちていく。自らのセクシュアリティに対する苦悶、仕事に対するプレッシャーから来るアルコール依存症、マネージャーや取り巻き連中への不信感から仲間との衝突を繰り返す。最後は、CBSソニーとソロ契約をしてバンドからの離脱を試みる。
諍いの後、1985年7月、アフリカ難民救済のチャリティコンサート「ライヴ・エイド」への参加のため、クイーンは再結成される。ライブ音楽のパフォーマンスを通して、フレディは仲間との絆や家族との愛情を確かめる。陰ながら支援してくれていた元恋人とも和解する。
映画としての出来栄えは、ほぼ完ぺきだろう。優れた脚本とカメラワーク、本物を忠実に再現した演技と舞台と音響、配役と演出の効果。映画興行収入は、日本公開の11月9日から一か月間で、30億円?を超えているとも聞いている。
ロック音楽に浸っていた50代後半から、われわれ団塊直下の世代(年代的には、1950年代~1960年代半ば)だけに観客は狭く限定されていない。20代の若者が観客に動員されている。しかも、一昨年にヒットした「君の名は。」や「この世界の片隅に。」のように、リピート視聴者の存在が興行を支えている。すでにロングランになりそうな気配がある。
その理由は、アニメの2作品とは異なっている。ボヘミアン・ラプソディの再来場動機は、共感と耽溺と参加である。通常のヒット作品との根本的なちがいは、同作品が顧客参加型の映画になっていることである。クイーンのライブ・エイドを経験するとわかるが、役者と観客が同期するように演奏(パフォーマンス)が進行するように舞台(ステージ)が設計されている。
映画のストーリーも重要なのだが、もっと大切なのは、彼らの演奏と踊り(フレディのパフォーマンスを、わたしは敢えて「ダンス」と呼びたい)である。そして、舞台装置の中で、演者と観衆は不即不離の関係にある。サービスマーケティングの専門用語でいえば、演奏者と聴衆は音楽の「共同生産者」になるのである。
だから、高度な共感と上質な耽溺には、積極的な参加が必要になる。そして、高い参加満足度がもたらす結果が、反復視聴(再来場)ということになる。だから、われわれ世代だけでなく、若者世代も繰り返して映画館に足を運ぶのである。キーワードは、「参加型の体験視聴」である。
というわけで、ボヘミアン・ラプソディの成功について、映画評論家の説明は的が外れているように思う。これは、クイーンの演奏の特性からきているもので、主として時代背景や内容(コンテンツ)から来るものではない。
もちろんそうした要因も小さくはないが、だからといって、これと同じような作品がほかで作れるわけではない。二匹目のどじょうはいないだろう。再現性は低いといえる。なぜなら、フレディの演技性はユニークで、アーティストとしては唯一無二の存在と言っていいからだ。
評論家たちからは、クイーンの影響は、J・ポップの代表選手であるミスチルやアルフィーに及んでいるとされている。しかし、舞台演出から言えば、和製ロック歌手の最高峰に君臨している浜田省吾や、日本でもっとも歌唱力が高いと評価されている玉置浩二が、わが目と耳にはもっとも”フレディらしく”みえる。
ロックの本質をよくわかっていないわたしなどが、クイーンの映画にコメントをするのは控えたほうが良いのかもしれない。ただし、ネットでのコメントを見たり、映画評論家の見解を読むと、ヒットの本質を外しているような気がしてならない。部外者の立場から、あえて気に入った映画の評論をしてみたわけである。
最後に、大事な推奨の発言を忘れていた。
この映画は、世代を超えて絶対に見るべき価値のある作品である。映画館に足を運んだ貴方は、かならずや心を揺さぶられることになるだろう。
ボヘミアン・ラプソディのイントロは、”ずんずん攻めてくる”ピアノとドラムのリズムからはじまる。わたしは偏執狂のロックファンではないから、一般的にはロックが麻薬になることはない。しかし、クイーンの音楽に限定してなのだが、アルコール依存症のフレディのように、今夜も酒がないとわたしは眠れないかも(笑)。