(その4)「大学の郊外移転の30年後:大学もサービス産業だった!」『北羽新報』(2016年11月24日号)

 11月号では、数年前にブログで書いた大学の郊外移転に関する記事を書き直して、子息や親せきに受験生を抱えている地元市民に紹介してみました。法政大学が経験した「多摩移転の30年後」をレビューしたものです。かつて東京の大手私大がどのような動機からキャンパス移転を実施したのかを解説しました。

 

「大学の郊外移転の30年後:大学もサービス産業だった!」

『北羽新報』2016年11月24日号 法政大学 小川孔輔

 法政大学の経営学部に助手として採用されたのは1976年の春。大学院の博士課程に進学したばかりで、25歳のときでした。いまでも忘れられないのは、正式な辞令が大学から送られて来たのが、夏休み明けの9月だったことです。しかも辞令が届けられたのは、教員研究室の郵便受けでした。ふつうの企業では考えられないことです。「(辞令は)学部長から直に手渡しされるもの」とばかり思っていました。

 今年で40年間、法政大学に奉職していることになります。「自由と進歩」を教育理念として謳うだけあって、この大学は形式に凝り固まっているところがありません。ルール破りの組織風土にはいまでもびっくりさせられます。研究や教育についても、非常に自由な校風の大学です。学部や教員の間での交流も盛んです。30年間は経営学部に所属していましたが、多摩キャンパス(八王子市)にある経済学部や社会学部の教職員や、小金キャンパス(小金井市)にある工学部の先生たちとも、野球やテニスの大会で交流を深めていました。

 牧歌的な雰囲気の大学に、一度だけ緊迫した時期がありました。1978年から1982年にかけての5年間です。当時、都心にある市ヶ谷キャンパスには、文系5学部(法学部、文学部、経済学部、社会学部、経営学部)が集中していました。いたし方がないことなのですが、法政大学は都心のビルにある分散校舎でした。教室も研究室も手狭になっていました。学生運動に嫌気がさした教員グループの影響力が強く、2つの学部(経済学部と社会学部)は、多摩キャンパスに移転することを決定しました。文系5学部がすべて多摩地区に移転する案が当初は有力でしたが、3つの学部(法学部、文学部、経営学部)が全面移転に反対しました。結局は、2学部のみの部分移転となりました。これは、正しい決断でした。

 

 多摩キャンパスへの移転から30年が経過しました。いま冷静に振り返ってみると、1980年代のバブル期に、文部科学省は都心にある大学を郊外に追い出したかったのです。都心のオフィスビルが不足して、大きな校地を持つ私立大学はねらい打ちされていました。当時、法政大学以外では、中央大学(八王子校舎)、青山学院大学(厚木校舎)、帝京大学(多摩校舎)、東京理科大(野田校舎)などが郊外に移転しました。反対に、明治大学は幕張移転に失敗し、早稲田は本庄児玉に移転する計画があったのですが、付属高校(本庄早稲田)の設置と一部の研究施設の移転でお茶を濁しました。学内がまとまらず、理事会もリーダーシップを発揮できなかったので、偶然にも明治と早稲田はいま繁栄しています。

 首都圏で郊外に移転した大学は、いまはどこも生徒募集に苦労しています。冷静に考えてみれば、それはわかっていたことなのです。大学もサービス業です。コンビニやスーパーは、近くて便利だから利用されます。大学も同じです。学生たちはアルバイト先が確保できて、通いやすい立地にある大学を選びます。若手の教員も同じです。待遇が同じで偏差値が同水準の大学なら、通いやすい都心の大学を選びます。

  その結果、郊外移転の20年後に、青山学院大学は厚木キャンパスを放棄しました。発祥の地、東京青山に回帰した途端に、青学は箱根駅伝で快走しています。東京理科大学も、野田校舎から撤退しました。中央大学も八王子キャンパスは人気がないので、ビジネススクールや法科大学院などは、うちの大学の隣接地に校舎を移しています。社会人で勉強したいとビジネスマンには、やはり都心が便利だからです。

 

 最後の砦は、わが法政大学です。環境に恵まれて美しい自然の中のキャンパスなのですが、多摩キャンパスにある経済学部や社会学部は、学部の偏差値を落としています。市ヶ谷にある経営学部のほうが偏差値では勝っているのです。法政の3つの付属高校(法政高校、法政二高、法政女子高)の成績上位者は、ほとんどが市ヶ谷キャンパスにある学部を選択します。

 法政大学の現総長は、東京六大学で初めての女性学長が務めています。大学も立地産業です。江戸文学者の田中優子総長は、多摩キャンパスについて、就任2期目にどのような判断を下すのでしょうか。経営学者として、わたしは彼女の決断を見守っています。