【感想】 私の履歴書・似鳥昭雄さん(日経新聞・まとめ記事1~30)

 人間の運命など、はっきり先が見えているわけではない。経営者としての成功もかなり不確かなものだ。家具の製造小売業ニトリの創業者、似鳥昭雄さんの自伝を連休中にまとめて読んでみた。30回分を一気に読み終えて、似鳥さんの人間としての率直さと逞しさに感嘆するばかりだった。



 似鳥さんの「私の履歴書」は、4月1日から日経新聞で連載されていた。その連載中には、わが仲間たちの間ではたいそう評判になっていた。だから、気が付いたときにときどき拾い読みをしていたのだが、あとでまとめて読んでみよう思っていた。
 なんとも、飾りっ気のない言葉で、装飾なしにご自分の人生をそのままインタビューで語っている様子だった。そこが評判の源だったのだろう。若い時のいじめや過酷な体験をものともせず、自らを変えていったことが淡々と述べられている。それなのに、伸びていった自分におごるような言葉がひとつも出てこない。そこに、この人の人間力を感じた。
 それと、経営的な指導という点で、ペガサスクラブのチーフコンサルタントだった渥美俊一先生の影響が非常に大きかったことを知った。連載中、1970年代の前半から直近の2009年まで、ニトリが成長する諸局面で、渥美先生の言葉と振る舞いが登場する。先生の出てくる場面は、愛情と厳しさとが交錯するドラマ仕立てになっている。
 なんとなく渥美先生ご本人の様子がわかるだけに、わたしも懐かしい気持ちになった。それだけ、似鳥さんは渥美先生に帰依していたのだろう。日本人の経営者を指導してきた達人の名前をあげるとすると、いまや代表選手は、京セラの稲盛さんと、亡くなられた渥美先生のふたりだろう。

 このブログで、渥美先生のことを書いた記事(たとえば、2010年7月24日、先生の葬儀の話)が、連載中にときどき突然アクセスが増えていた。一日200~300程度なのだが、「渥美俊一」と検索すると、わたしのブログに到達するらしかった。複数の人から、そのことについての指摘を受けた。
 「私の履歴書」を読み返しておもしろかったのは、「わたしの尊敬する先生」と言いながら、似鳥さんは実は半分くらい、渥美先生のアドバイスに従っていなかったことだ。たとえば、海外出店のタイミング(早すぎた台湾出店)、株式の兄弟間での持合い禁止(のちに裁判となる)、高層6階建て旗艦店建設(南町田店)など。
 先生のアドバイスを正しく聞くべきだったこともあるが、先生の意に逆らってうまくいった案件や判断もあった。渥美先生が亡くなられてから5年になる。先生が弟子たちを指導した実質のところは、だから、企業経営で守るべき「原理原則」と親身な「精神的支援」だったように思える。

 わたしの周囲には、故渥美俊一の指導を受けた経営者がたくさんいる。多少の濃淡はあるものの、似鳥さんに接していたと同じような姿勢で、渥美先生は弟子たちを怒ったり、なだめすかしたりしていたようだ。怖いけれど、人間味あふれる助言者は、やはり人間臭い経営者を育てたようだった。
 途中で脱落していったペガサスのメンバーは、きっとどこかで賢く立ち回ったのだろう。あるいは、先生がいつも指摘していたように、慢心が原因で途中で成長できなかったようだ。
 それに対して、成功者の生き方の典型が、似鳥さんだった。孤独な経営者を支えるアドバイザーであり、そこには、よき親子関係があったと言っていいように思う。
 もう二度と、渥美先生のような直情型の大物コンサルタントは登場しそうにないのが残念だ。