人間はときどき根拠の薄弱な思い込みを持つことがある。伊勢屋の休日は、なぜか「月曜日」と思っていた。「水曜定休」を忘れて、二度も浅草からタクシー料金を無駄にした。小雨になった昨日、2年ぶりに天丼を食することができた。豪勢な天丼の「ハ」(2300円)である。
天丼専門店の「伊勢屋」は、明治22年の創業。初代の若林儀三郎が、吉原大門の前で食堂を始めたのが120年以上前のこと。現在の建物は昭和2年に再建されたものらしく、国から登録有形文化財に認定されている。HPに書いてあるのは本当で、店内の食堂の壁に、「有形文化財」の認定証が貼ってある。
薄暗い店内の壁や天井は、天丼の「たれ」がしみ込んでいるのではないかと思えるくらいとにかく古い。木造の有形文化財ゆえ、簡単には修繕が品替えができないのだろう。古い柱時計や机やテーブルには、擦り傷がたくさんある。店内の静けさが、ロマンチックで素敵である。
だから、わたしはふつう、この店にはひとりでやってくる。単独でやってくるのは、わたしだけではないらしい。昨夜も、隣りに座ったサラリーマン風の若い客は、わたしとおなじ天丼の「ハ」を黙々と食べて、一言も発せずに席を立った。
昨夜になって、わたしは、なぜか梅雨のころから初夏にかけてこの店にやってきていることに気づいた。
店に入ると、状況が許せばだが、いちばん奥の席に座る。まずは「板わさ」(一切れが大きいぞ!)に、ぬる燗を1本頼む。喉が渇いているときのみ、キリンの一番搾り(大瓶)を1本注文する。店内には、ランプのような電燈が灯っている。そのうす暗がりを楽しみながら、黙ってぬる燗の酔いが回ってくるのを待つ。
最後に、天丼の「ロ」(1900円)で上がるのだが、その間は長くて30~40分。決して長居はしない。なぜなら、外には簡易な椅子が数個置いてあって、たいていは5~6人の客が席が空くのを待っているからだ。
昨夜は、この個人ルールを守らずに、かみさんとふたりで来店した。しかも、上がりの天丼は、いつもの上の「ロ」ではなく、特上の「ハ」を頼んだ。実は、特上の天丼に挑むのははじめてのことである。かみさんも、その勢いで、わたしがいつも頼んでいる「ロ」を注文した。女性には、「ロ」でも難敵である。
ちなみに、天丼は3種類ある。並の標準品は「イ」(1400円)で、これには、エビ2本とかき揚げが乗っている。上の「ロ」(1900円)の具は、エビとアナゴとかき揚げ。エビとアナゴは、どんぶりからはみ出している。特上の「ハ」(2300円)となると、5品が乗っている。エビ、アナゴ、かき揚げ(小エビとイカがぷりぷり)、シイタケ、そして、なぜかショウガ。
どんぶりからエビとアナゴがはみ出しているのは、「ロ」と同じだ。「イ」や「ロ」と特上の「ハ」が違う点は、店員さんが、どんぶりに「ふた」をして天丼を持ってきてくれることだ。天丼のはみ出し具は、「ふた」に移して食べてくださいという意味である。
かみさんは、「はみ出し具」を食べられずに、男性の店員さんにふたを持ってくるように頼んだ。もしかすると、もう数品(ハゼ、キス、イカの類)が上に乗っていたのかもしれない。メニューを確かめてみないと、伊勢屋のHPでも正確な具材の数はわからなかった。
わたしが伊勢屋の天丼が大好きなのは、タレの甘さと辛さが、秋田生まれで東京育ちにはこたえられないからだ。上質なごま油で天ぷらを揚げてある。そして、具材が新鮮なことも魅力だ。おそらくは、江戸や明治のころは、ハゼやキスがこのあたりでも撮れたのだろう。イカや小エビもぷりぷりだ。
店内の客は、黙々と天丼を食している。そして、暗がりの中で、快く湿った時間が過ぎていくのを楽しんでいる風だ。おしゃべりのわたしでさえ、この店では大声で話すことに気が引けるくらいなのだ。
東京下町、浅草・吉原大門の前、土手の伊勢屋。その隣りは、さくら鍋で有名な「中江」である。こちらも、明治から100年以上続く「桜なべ」の老舗である。