下ネタねぎ(笑)と露天風呂@清流荘

 川喜多教授(当時、経営学部)にすすめられて、下仁田温泉に泊まったのは15年前だと思っていた。ところが、清流荘のご主人に聞くと、露天風呂が台風の大洪水で流されたのは8~9年前とのこと。人間の記憶とは、ずいぶんといい加減なものだ。



 外国人のバックパッカーたちと露天風呂に入れず、仕方なく内風呂のヒノキに入った。それが、2005~2006年だった(らしい)。わたしの勘違いの原因は、甘楽町さくらマラソン(10Kと20K)を二回走っていて、清流荘に泊まったのが二回目のレース参加の時だったからだろう。おそらくは、マラソン参加が先で、下仁田温泉に宿泊したのはあとだったのだろう。

 甘楽町は、思い出が深い場所である。わたしの人生の転機に、何度か群馬県のこの町(甘楽町)が登場する。
 大学院の学生のとき(25歳)、食品スーパーの「ヤオコー」(7号店@現本庄児玉)と出会った。1976年に、群馬県藤岡市に、IY(ヨーカ堂)が出店した。わたしの所属していた研究室が、ヤオコーなどの田舎の中小スーパー(児玉店)への影響度を調査していた。
 梅沢研究室(東大経済学部)の後輩たちと一緒に、群馬県と埼玉県を中心に、大型店(IY藤岡店)の出店影響度マップを作った。その中のふたりは、現在、「日本みらいキャピタル」の社長をしている安嶋明くんと、一橋大学商学部教授の古川一郎くんがいた。
 その後も何度がこの町の周辺を訪れている。甘楽町の商店街が、IY藤岡店の影響の範囲に入っていたからである。そこで、はじめて甘楽を「かんら」と読むことを知った。当時は、この町が、織田氏(信長の末裔)のゆかりの地だとは知らなかった。桜並木と堀を流れる水がきれいな元城下町だった。
 
 わたしの二度目の転機は、45歳の時である。統計的なアプローチをやめて、フィールドワーク主体の研究に切り替えた。この研究スタイルの「モデルチェンジ」は、1994年だった。
 この年に、清成総長(当時は、経営学部教授)の選挙(二回目)の指揮を取ながら、『ブランド戦略の実際』(日経文庫)を4週間で書き上げた。本を書くのは、それほど大変な作業ではないことを知った。テーマの選び方と辛抱とスピードさえあれば、だれでもできることだ。あとは、編集者との人的なつながりを大切にすること。
 その後の12年間、学内政治に首までどっぷり浸りながら、そのまま足抜けできなくなってしまった。研究が十分にできないことで、リサーチャーとして苦難が始まった。

 ほぼ時を同じくして、ホノルルマラソンで惨敗することになった。マラソンを軽く見ていた結果、しっぺ返しをくらったのである。練習などそこそこで、本ちゃんの42Kに、当時ゼミ生だった小島覚くん(同和火災損害保険)と挑戦した。無謀だった。
 1995年の初マラソンの記録は、5時間30分。ダイヤモンドヘッドから先は、蒸し暑い路面に体を焼きながら、とぼとぼと歩いてようやくゴールイン。この屈辱を契機に、本格的にマラソンを始めた。負けず嫌いだったから、10年計画でサブ4の達成を目標設定した。
 というわけで、公式のマラソン大会に出場しはじめたのは、1998年からである。その直後に、甘楽町のさくらマラソンを走った(はずだった)。甘楽町のレースと、宮崎の青島太平洋マラソンが、マラソンの進歩を計る「試金石レース」だった。そうなのだ。今ようやく、思い出すことができた。
 甘楽町のマラソンコースは、美しい街並みとのどかな田園風景がミックスしている。そして、自分を追い込むための「きびしいアップダウン」が続くタフなコースだった。これぞマラソンの醍醐味。マラソンの本質について、はじめて気づかされたレースだった。

 さて、この時点で、人間の記憶の曖昧さが、ふたたび明らかになってしまった(苦笑)。さきほど、過去のレース結果を調べてみた。
 実は、甘楽(町)さくらマラソンは、これまで3度も走っていたのだった! 今回が四度めだった。しかも、宿のご主人の記憶も、わたしに負けず劣らず、あいまいだったことに明らかになった。例の洪水は、2003年4月だった。台風一過などではなかったのだ。

 <小川のレースファイルから>
 ・2000年4月16日  甘楽さくらマラソン(10K)47分00秒
 ・2001年4月15日  甘楽桜マラソン(20K) 1時間37分19秒
 ・2003年4月20日 甘楽さくらマラソン(20K) 1時間38分53秒

 アップダウンの激しいコースで、その割には、10Kも入れて3度ともかなり健闘している。ほとんど忘れていたことだった。この20Kの記録は、距離がハーフならば、1時間43分~44分に相当する。かなりの好タイムだ。今回(2014年)のは? いやいや、言うのはやめておこう(笑)。
 帰り際に、宿のおばさんから、例の太めの下仁田ネギをいただいた。「ちょっと痛んではいるけどね」と。昨夜は、帰宅後に自分で、鍋料理に下仁田ねぎを投入した。あの当時も、お土産(ネギとこんにゃく)を持って帰ったはずだ。なぜなら、小学生だったふたりの男の子たちが、「下仁田ネギ」と発音できずに、「下ネタねぎ!」と叫んで喜んでいたからだ。
 遠い時間の先にある、なつかしい記憶だ。子供たちは元気で働いている。わたしは、、、