なんとも言いようのない本である。出版は、民主党政権が内部崩壊し、自公へ再度の政権交代が起こる半年前(2012年6月26日)である。メディアによる「小沢一郎批判」を批判した「反批判本」である。出版社・著者の経歴ともに奇々怪々ではあるが、そこが本書の魅力である。
しかし、政局の説明や日米関係(沖縄米軍基地移転問題)の解釈など、内容の論理構成には納得がいく部分が多い。わたしのような保守・民族主義的な教員が、本書のような偏った(と一般には思われている)見解をブログで取り上げると、また波紋を呼びそうだが、ここは正直な感想を書くことにする。
なお、全体評価は★3であるが、内容的には肯定的な評価(+★)、編集的には(-★)で減点になる。さらに言えば、評論家の西部邁氏の批判(第4章)は不要である。ここまで個人攻撃をすると、作品全体が下品になる。
もっとも、政治的な行為そのものが下品な営為であるのだから、まあ仕方がないのかもしれない。わたしの知る限りでは、著者(山崎氏)のお仲間とおぼしき柄谷行人氏(元法政大学教養部)などは、かなり品のない学内政治活動(入試ボイコットなど)をしていた人物ではあった。
政治思想的な著作(文学や哲学)と本人の日常行為とは、別物なのだと納得したものだった。実存主義的な哲学者は、清廉潔白などとはほど遠い世界に住んでいるものである。その実態を知ると若い学生などはがっかりするだろうな(笑い)。
本題に入ることにする。本書には、とても重要な前提がふたつある。
一番目は、「戦後の日米関係」が、ジャパン・ハンドラー(代表者:ジョセフ・ナイ、ハーバード大学教授、ジェラルド・カーティス、コロンビア大学教授)に操作されていたという想定である。日本の政治(自民党の保守本流)とメディア(読売新聞、日本テレビ)は、米国CIAの影響下にあったというストーリーである。だが、もしこの前提が成立しないとなると、本書で展開されている「小沢裁判の不当性」の説明がすべて崩壊する。
わたし自身は、この前提の半分は正しいとみている。ただし、それが意図的・直接的な操作であったのか、それとも潜在的・間接的な政治工作だったのかは永遠に結論が出ないだろうと思う。本書の中で展開されている証拠は、すべて憶測の域を出ていない。真実は闇の中である。
たとえば、わたしの尊敬する経営コンサルタントの故渥美俊一氏(元JRCチーフコンサルタント)は、米国小売流通業のわが国への技術移転に貢献している。その盟友である藤田田氏(日本マクドナルド創業者)や渡邉恒雄読売新聞社主筆などは、あきらかに米国の政界と深いつながりを持っている(現地特派員として、あるいはビジネス界との太いパイプを構築)。
また、学者レベルでいえば、戦後のフルブライト奨学金制度(日本人留学生への資金補助)などは、米国文化の受容に大いにプラスになっている。それが洗脳なのか、それとも米国文化の受容過程で留学生たちが親米的な思想を植え付けられたのかは、これはよくわからない。永遠に証明のしようがないだろう。
二番目は、「行動主義的な政治家像」(小沢氏もそのひとり)を肯定するのか、それとも否定するのか(「観念論的な政治家論」に帰依する)の立場のちがいである。
前者の立場を擁護している、本文中の表現を抜き出してみる。この言説に賛同する人は、「小沢支持者」である。否定的な政治傾向を持つひとは、「反小沢」になる。
小沢一郎はなぜ沈黙するのか (本文、117ページから)
(前略)
小沢一郎は、「権力闘争」と「選挙」を重視する。新人議員は政策の勉強より、選挙区に帰れと言明する。選挙地盤も確立していない新人議員たちが、今、なによりやるべきことは選挙だろうといういうわけである。私は、当然だと思う。政治家の原点は選挙である。政策や理念ではない。小沢一郎の「選挙至上主義」を批判するのは、新聞やテレビなど、マスコミを舞台に生活する政治記者と政治評論家、政治学者たちだけである。
(後略)
これを読めば、反小沢の識者たちは反吐が出るだろう。かなり評判が悪そうな極端な言説である。とはいえ、そもそも、「政治家」(当事者)とそれを飯のタネに生きている「メディアの住人」(政治記者や評論家)とは、基本的に利害が一致しない。そのことを著者は鋭く指摘している。
そして、聴衆(一般人)は、「物語を消費する人間」である側面(メディアの消費者)と、自らの未来に投資する投票人(選挙人)としての二重の立場から政治を眺めている。
政局は、これに官僚と財界人(労働組合)が複雑に絡み合って動いている。戦後政治のダイナミズムを説明するために、本書では、江藤淳(文芸評論家)や三島由紀夫(自決した作家)を引き合いに出している。行動論的な政治美学の礼賛なのだが、一般人には不評だろうなと心配になる。
山崎氏の小沢論がおもしろいのは、「小沢劇場」の本当のプレイヤーと、出演者間での利害関係を上手に整理してくれていることだろう。それも、オブラートに包みこむこなく、ときには過剰なまでの思い入れを込めて。本書は、メディアと官僚(主導)政治に対して猛毒を含んだ告発本である。