【書評】 浅利慶太(2013)『劇団四季メソッド『美しい日本語の話し方」』文藝春秋(★★★★★)

 帰りの新幹線で読もうと思って、大阪四季劇場の案内カウンターで購入した。「ライオンキング」の観劇と江畑さん(主演女優)へのインタビューで疲れてしまい、50ページのところに”しおり”を挟んで、車中にて深く眠り込んでしまった。朝起きて読了した。お世辞抜きで、文句なく「★5」である。



 さすが超一級の演出家である。慎重に言葉が選ばれていて、文章も構成もひっかかりがまったくない。不遜ながら、わたしがサブタイトルをつけるとしたら、「劇団四季:顧客第一主義の思想とその演技方法論」だろう。
 浅利氏がはじめて公開することにしたのは、劇団四季の「演技法」(呼吸法、母音法、フレージング法)である。そうなのだが、本当に読者に伝えたかったのは、”顧客主義”の「演劇思想」だっただろう。

 全体は、2つの部分から構成されている。前半の4章分(第1章「日本語について」~第4章「フレージング法」)と最後の第5章「劇団四季の歴史」に分かれている。内容的には、前半が演劇の方法論で、後半が劇団四季の活動史を通してまとめた「浅利慶太の演劇思想」である。

 前半部分は、劇団四季の役者さんたちが「話し方」(発声、演技)をどのように訓練されているのかを明かしたものである。浅利流の演技方法論であるとともに、日本語を明確に伝えるための「話し方の技術」を一般向けに解説したものである。四季の機関誌『アルプ』や浅利さんの他の書籍でも断片的に発表されてきている。
 今回はとくに、「話し方マニュアル」として完結した読み物になっている。個人的には、第3章「呼吸法」が興味深かった。この章は、(「胸式呼吸」に対置させた)「腹式呼吸のすすめ」になっている。わたしは長距離ランナーだが、息を大きく吐き出せれば吸い込みが楽になることを経験的に知っている。セリフを発するときに息を吐き出す作法は、効率よくマラソンを走るときの呼吸のコツと同じだった。
 酸素を効率よく吸い込むには、「息を吐く力」を強くしないといけない。それが自然にできるときは、猛烈なスピードで走っているときでも、体全体がリラックスしている。力みがなくなるので、結果的には良いタイムが出ることが多い。それは、舞台の上の演技でも同じだった。正しい呼吸法は、長距離走と演劇とで共通していたのだった。

 後半部分は、劇団四季の演劇思想史になっている。以下の記述はやや主観的であり、すこしばかり私事を含んでいる。
 秋田に住んでいて中高校生だったころのことである。「演劇」というものがどうしても好きになれなかった。その理由が、第5章を読んではじめてわかった。そのむかし、「労音」などの定期公演が地方にまわって来たとき、何度か新劇系の舞台を観たことがある。だが、ちっとも面白いとは思わなかった。それは当然で、劇そのものが楽めないうえに、感動がなかったからだった。
 マーケティング論の立場から解釈すると、新劇系の劇構成と演技法は、「製品志向」の舞台の作り方なのだった。浅利氏は文中で「ナルシスト」(耽美主義者)と呼んでいたが、作り手の技術と思想を舞台で表現することが演劇の目的だった。わたしたち観客は、どこか「蚊帳の外」に置いてきぼりにさせられていた。だから、感動が伝わらなかったのだ。

 当時はまじめな学生だったので、「高尚な劇」が理解できないのは自分の鑑賞力のせいだと思っていた。しかし、浅利さんの言葉を借りれば、「彼らがやってきたことは、純粋に人々を感動させる舞台芸術としての演劇からほど遠いものだったからです。社会体制を攻撃する内容は、独りよがりで観客の嗜好をまったく無視したものだったのです」(143頁)。
 自分の感性に問題があったわけではないことを知って安心した。劇団四季が目指してきたのは、それとは真逆の「顧客志向」だった。自分の主義主張で演じてはならない。顧客の感動を得るために、どのようにセリフを伝えるべきかに腐心すること。これは、サービス・マーケティングの基本思想である。おもてなしの心にしたがって、観客の感動のために演じることだ。

 本書を読んで、とてもうれしいことがひとつあった。わたしが座長として開発したJCSI(日本版顧客満足度)の調査が引用されていたことだ。2010年から2012年まで、「劇団四季」は日本のサービス業(約400社)の中で3年連続トップの座を射止めている(2013年は第3位)。浅利さんが、そのことについて著書の中で触れてくれたことが、調査システムの開発者として感激だった(127~129頁)。
 全体で第3位となった2013年でも、劇団四季は、「知覚価値」(お値頃感)では、CS第一位の「TDR(東京ディズニーリゾート)」を上回っている。また、オンライン予約制度の導入や価格改定(2009年からS席を9800円に値下げ)に関しても、劇団四季の顧客志向は徹底している。
 役者さんたちの訓練プロセスも同様である。顧客に感動をもたらすためのインプットとして、個々人の演技が位置づけられている。だから、よく引き合いに出される「宝塚歌劇団」や韓国の「スターシステム」とは、劇団四季の方法は完全に一線を画している。

 この本を読むことで、ご本人(浅利慶太氏)の思いとして、再確認できたことがあった。
 それは、四季劇団をはじめるにあたって、「役者専業で食べていける劇団組織」を作ることを目指していたことである。本書の139頁には、「食える劇団に」という小節がある。「顧客がすべて」(140頁)という小節がそれに続く。
 従業員(役者と技術スタッフ)に安定的な生活を保障することで、舞台に集中して顧客志向を貫いていくことができる環境を整える。それが実現できる強い組織を作ることを、ひとりの演出家兼経営者が60年間にわたって考え抜いてきた。 
 最終的には、総勢約1100名の演劇集団と、全国8か所の常設劇場と、約18万人からなるサポーター顧客のネットワークを構築することに成功する。そのベースには、徹底的な顧客志向がある。俳優たちの機能は、まるで時速180KMでアウトバーンを疾駆する自動車の「部品」のように見える。
 
 6月発売予定の新しい本『ホワイト企業(仮)』で、一章分を丸ごと「劇団四季」に割り当てている。そこでは、つぎのようなことが書かれるはずだ。
 ロングランの演劇は、スターひとりを輝せるためにあるのではない。顧客を満足させるために、まずは従業員が生き生きと働かなければならない。「ひとりのスターを輝かせるために、その他のキャストが奉仕する」のではない。顧客に感動を与えるために、劇団としては「チーム作り」にまい進するのだ。
 そもそも舞台に上がる目的がちがっている。役者たちが長時間続けて稽古に励むことができるのは、使命感と鍛錬された集中力を鍛えられているからだ。舞台は、役者たる自分のために演じるのではない。究極の目的は、顧客に深い感動を届けるためである。そのことが本書では明記されている。

 最後に、本書を読むうえで大事な二つのことを付け加えておきたい。
 ひとつは、劇団四季の舞台演技の遺伝子は、日本の伝統芸能である歌舞伎や能、狂言、文楽に由来していることである。浅利慶太自身が、二代目市川左団次の甥である。幼少期を、伝統芸能の世界の中で過ごしている。
 演劇の舞台を支えるべき要素や様式に関して、浅利慶太が考える原初の空気感が、そもそも新劇の演出家や役者たちとはちがっていたのではないのだろか? 根本にある生活感覚は、歌舞伎の演技にあると想像できる。「フレージング法」の発想は、もともと歌舞伎役者の見得の「切り方」や能狂言の発語の「折り」に、そのヒントがあったのではなかろうか。
 二番目は、演劇における「ローカリティ」(地方)の尊重である。これはわたしの想像なのだが、浅利氏がプロデュースするミュージカルを見ていて、「演劇のルーツは、その国のローカル(地方)にある」と感じる瞬間がある。「旅公演で俳優は育つ」(157頁)と浅利氏も書いている。全国公演では、舞台環境と客の質が日々変わっていく。その変化に適応することで役者は鍛えられていくのである。
 東京の5か所を中心に常設劇場を全国8か所も有しながら、いまだに劇団四季は全国公演を続けている。原初の日本の演劇は、旅回りの役者によって演じられた「どさまわりの芝居」だったはずだ。全国民に娯楽を普及させることが大衆芸能の使命であるとすれば、劇団四季はいまもそのミッションに忠実に活動していることになる。

 昨日(3月30日)の「ライオンキング」は、大阪駅前・梅田にある大阪四季劇場で上演された。日曜日でお子連れのお客さんもたくさんいた。聴衆は、基本的に関西人である。
 劇中、主人公のシンバ(主役のライオン)の友人たち、脇役のティモン(ミーアキャット)とブンバァ(イボイノシシ)の掛け合いがある。それまで標準語で演じられていたセリフが、ここで突然、関西弁に切り変わる。聴衆は大爆笑の渦に。そして、伴奏の音楽には、”六甲おろし”(阪神タイガース応援歌)が流れる。この場面では、観客席から大拍手が巻き起こる。
 一般には、劇団四季のセリフは標準語で演じられる。わかりやすい日本語を追求しているはずであるが、ティモンとプンバァの掛け合いに限っては、ローカルの言語を使用する。九州で演じられるライオンキングは博多弁で、仙台のライオンキングは東北弁で、名古屋では名古屋弁で演じられる。

 それでは、脇役たちの掛け合い場面は、東京の舞台では標準語を使用するだろうか? わたしの想像に反して、その答えはちがっていた。
 劇団四季の大阪広報部、福田朋未さんから教えていただいた正解は、「(東京公演では、)”お姉言葉”と”べらんめえ口調(江戸弁)”を使うのです」だった。江戸弁もローカル言語だったことを、わたしはうっかり忘れていた。標準語とは、もともと自然界には存在しない調整された「人工言語」なのだ。
 そう、土着の股旅物を起点とした「旅の劇」を尊重する考え方が、浅利慶太の劇団四季にはあるのだった。役者のルーツは、フラメンコ・ダンサーであり、ジプシーであり、日本では、かわら乞食だった。