【新刊紹介】Jim Inglis(2021) ‘Break-Through Retailing:Bleeding Orange Culture Can Change Everything,’ IR Publishing

 ジム・イングリス氏(元ホームデポの役員)の著書を入手した。原書のタイトルは、’Break-Through Retailing’。サブタイトルにある’Orange Culture’とは、アメリカ南部のサンベルト地帯を象徴するオレンジに由来する。ホームデポのアソシエイツ(仲間・社員)はオレンジ色のエプロンで売り場に立つ。’Bleeding’の意味は、「オレンジ(挑戦と自主性)の文化に染める」の意味だろう。

 

 全体は、前半(第1部~第3部)と後半(第4部)の二つに分かれている。前半部分は、ホームデポの創業から現在(2021年)までの会社の歴史である。ホームデポは、わずか20年で3兆円企業に成長した企業である。驚異の発展を遂げた企業の原動力は、現場に権限をゆだねる「分権的な企業文化」であるとされている。

 

 第1部(Building the Home Depo)は、1979年の創業から2000年までをカバーしている。そこでは、伝統的なHC(高粗利で緩い競争環境)を打破するホームデポの草創期の成功物語が描かれている。挑戦者のホームデポが、既存HC(ホームインプルーブメント業界)のほとんどの企業を駆逐できた社会的な背景が解説されている。

  第2部(Foundation Cracks)では、ふたりの創業者、バーニー・マーカスとアーサー・ブランク(実際の創業メンバーは4人のサムライ)がホームデポを離れた後、短い停滞期を扱っている。黄金期のGEからやって来たCEOのナルデリの7年間で、ホームデポは停滞を経験する。第3部(Reconstruction)では、経営陣が刷新されて再復活をする時代をシンプルに記述している。役員交代(2007年~)で、ホームデポの進撃が再びはじまり今に至っている。

 後半部分(第4部)は、著者のジム・イングリス氏の経営論(Blueprint for Success)である。ここは、全11章で構成されている。いわゆる「マーチャンダイジング・ミックス」に沿って、ホームデポの革新性のエッセンスが解説される。第11章(Art of Merchandising)にはじまり、第21章(Company Culture)で終わる。

 

 著者のジム・イングリスは、1979年の創業から4年後の1983年にホームデポに入社している。創業者チームのひとり、MDの天才パット・ファローに誘われて、アトランタの新店を見てから入社を決意した。その後の13年間、成長期のホームデポでは、主としてMD(マーチャンダイジング)担当のシニア経営者として過ごしている。

 離職後は、海外のホームセンターを渡り歩く。経営陣のひとりとして、あるときはコンサルタントとして、例えば、日本のコメリやチリのホームデポ提携企業でアドバイザーとして働いている。彼はHC業界のグローバルなアドバイザーとして、業界屈指の知恵者として著名である。ただし、これまではあまり表に出てくる人物ではなかったらしい。HC業界の人脈に疎いわたしは、彼の名前を知らなかった。

 たとえば、2人の創業者(マーカスとブランク)が書いた『ホーム・デポ驚異の成長物語』(ダイヤモンド社、2000年)にも登場していない。石原靖廣(日+廣)著『最強のホームセンター』(商業界、1998年)にも、ジムの名前は出てこない。

 

 本書の特徴は、約20年前に出版された2冊の書物(創業者のマーカスとブランク、石原氏の解説本)と比較して、つぎの点で真価(進化)が観られる。それは、著者のイングリス氏は経営の上層部にはいたが、創業者チームのコアメンバーではなかったからだと思われる。

 創業者が築いた戦略を完璧に理解する一方で、実務能力に長けていたイングリス氏は、実践に強いディレクターだった。具体的な課題を解決する能力が高かったからこそ、他社でも通用する顧問役がこなせたのだろう。ある意味で、客観的にホームデポの歴史を整理・回顧しながら、論理的に同社の革新の詳細を説明できる立場にあった。

 本書の特徴を述べてみよう。

 

1 単なる成功物語(歴史本)に終わらせていない

 創業者メンバーたちの出会いを取り上げた第1章(The Home Depo: The Early Day)などは、マーカスとブランクが著した『ホーム・デポ驚異の成長物語』に比べて、短く簡潔にまとめられている。伝統的なHC(ホームインプルーブメント業界)が、倉庫型の大型店舗に置き換わっていく様子を、パラダイムシフトとして簡潔に記述している。

 根底にあるのは、①低価格と低粗利(伝統的なHCの約半分)による競合の駆逐、卸価格を実現するための直販チャネルの開拓だった。これを、GMRIO(Gross Margin Return on Inventory Investomet:商品投下資本粗利益率)を高める戦略で説明している。シンプルな勝利戦略による説明である。

 粗利益率を低く設定して(25~27%前後)、商品在庫回転率(年10回転以上)を高めることで、GMROI(>400)を高めることができれば、収益性と企業の成長原資は確保できる。結果として、劇的な低価格商品の提供で顧客は大いに喜ぶ(第4章 : Pricing, Our Offesive Weapon)。

 その原資を、丁寧な顧客サービスと仲間社員の報酬に投下する。回転の経済が好循環の成長をもたらす。ただし、無理な成長路線は取らない。年成長率を25%以下に抑える。それでも日本の基準からしたら、充分に高い成長率だ。

 

2 直販チャネルが開拓できた実際のプロセス(経緯)が解説されている

 メーカーから商品を直に仕入れることができれば、低価格が実現できることは、論理的には誰にでもわかる。しかし、一般的に、メーカーは卸に気兼ねしてしまう。さらなる粗利の低下を懸念して、小売りに直に卸をことをはばかる傾向がある。実務的にそれを可能にするには、実践的な知恵が必要である。あるいは、垂直的な取引環境を変えるモメンタム(何らかの動機)が、メーカー側に必要になる。

 本書は、具体的な実践例をいくつか提供してくれる。第5章(Becoming the Channel Captain)と第4章(Buying Right)の中で、具体例が登場する。たとえば、電球の事例では、トップメーカーのGEと欧州企業のフィリップスを競わせたことで、最終的には両社と直取引きが実現する。

 もう一つのは、シアーズ(電動工具のCraftman)のOEMメーカーを取引業者として取り込んでいった事例である。それ以外に、衛生陶器メーカーのコーラー(Kohler)や工具メーカーのボッシュ(Bosch)などとブランドの提携を始めるプロセスが描かれている。なおかつ、その理論的な根拠は、第4部で整理してまとめられている。

 

3 対象市場がデュアル(2つ)であることの論理的な説明が書いてある

 一般のDIY顧客に低価格で丁寧なサービスを提供すると同時に、プロ顧客にも対応したことがもうひとつの成功要因だった。日本のHC市場でプロユーザ(業務顧客)に着目するようになったのは、ここ10年くらいの流れである。DCMやコーナン商事などがプロ対応業態を開発しているが、ホームデポがそのモデルになっている。

 しかし、日本でのプロ対応業態の展開とはちがって、ホームデポは、対象市場を当初からデュアル(対)にしたことで、顧客層を熱く設定できたと思われる。

  

 刊行が20年前と文献としてやや古くはなったが、石原氏の本は、いまでもホームデポを語るときに優れた教科書になっていると思う。わたし自身も、二人の創業者の本を読むより、石原さんの本に触発されることの方が多かった。本書以上に、石原さんの本の方が小売業のフォーマット展開の現実を、米国の社会的な事情も含めて、日本の読者に対して丁寧に説明してくれているからだろう。

 それに対して、本書が出版された意味は、つぎの3つではないかと考える。

 

1 2冊の本が書かれてから20年以上が経過している。ホームデポもその後、やや問題含みのCEO(経営陣)の登場で、創業時のメンバーが離れ、一度は沈没しかけている。本書では、その後の復活までの歴史を簡単に記述している。なぜ事業が停滞してしまったのか。なぜ復活できたのかが解説されている。

2 第4部は、ホームセンター業界のことを主として念頭に置きながら、どのようにMDミックスを設計すべきかを語っている。しかし、小売業の革新性やオープンな企業文化の構築という点で、本書はHC業界に限らず、一般の小売チェーンやサービス業に同様に適用できる知恵を与えてくれる。

3 ジム・イングリス氏は、グローバルなバックグラウンドを持ったコンサルタントである。実務家であると同時に、アドバイザーや研修講師の役割に向いている。つまり、本書は、小売業の研修素材として役に立つ本であるとわたしは考えている。

 

 本書の中に、「True Noth(羅針盤)」という言葉が何度も出てくる。2017年に、林麻矢さんと一緒に翻訳した『True Noth:リーダーたちの羅針盤』(生産性出版)のタイトルである。2人の創業者たちは、旧態依然としたHC業界のイノベーションを実現することを羅針盤として、顧客中心主義と分権的な経営を目指した。その方向性は、いまでも変わっていない。

 ウォルマートの創業者サム・ウォルトンが、小売業界に広めた”Associates”という言葉も頻出する。従業員(employees)ではなく、仲間を社員として敬うときの呼称である。米国小売業界では、カタカナで「アソシエイツ」と表記される。この表現も、ホームデポの企業文化を体現した言葉である。日本の小売業界では、埼玉の食品スーパー「ヤオコー」のように、社員を「パートナーさん」と呼ぶ企業もある。

 本書を通して、小売経営に共通な成功要因が、3つの言葉に集約されていることを確認できる。「絶え間ないイノベーションへの挑戦」と「徹底的な顧客志向」、そして「分権的な組織づくり」である。