10月23日で、満60歳になる。50歳の時は、自分でお祝いのパーティーを主催してみた。その後は、波乱万丈の10年間になった。「やめとけばよかった!」と後悔したものだ。今回は、土曜日に授業が終了してから、弟子たちがお祝い会を準備してくれているらしい。
その前に、親しい女性に、浅草・雷門前の寿司や「まぐろ人」で、誕生日を祝ってもらった。昨日のことである。有名な立ち食い寿司屋だが、8席しかない。
正確には、スペースが8人分しかない、と言うべきだろう。立ち食いだから、回転すし店よりも、この店のほうがよほど客の回転が早い。
その場で、立ったままお寿司をつまみながら、「60歳の誕生日ってどんな気持ち?」と尋ねられた。おやっ、うまく反応ができなかった。どうしてなのだろう。
ブログで、自分の気持ちをまとめてみようと思い、いま文章をつづっている。特別な思いが、たしかに何もないのだ。50歳のときとは、えらく対照的である。
あのころ(2001年)は、九段南(地下鉄市ヶ谷駅徒歩3分)に、アパート兼用の事務所を借りていた。大学のために、憑かれたように働いていた。
4つの学部の設立、大学院の拡充、専門職大学院(IM研究科とアカウンティング)の設立に努力していた。最後の仕事(2007年)は、植物医科学専修と航空操縦専修をサポートすることだった。
共同研究もいくつも組織していた。学会誌の編集長が4年間、文部科学省の研究プロジェクトを3件、9年間。
大学の役職と同時に、2000年にJFMAを設立した。人も金も組織も何もないのに、IFEXを立ち上げ、MPSを設立した。だから、勉強している時間など、まったくなくなった。
仕方がないので、市ヶ谷にアパートを借りた。すべての公務を終えてから、夜中に起きだして、足りない時間を本の執筆に充てていた。今振り返ってみると、体を壊さなかったのが不思議なくらいだ。
その成果は、なんと、9年後に実ることになる。いま出版している本のほとんどが、市ヶ谷の事務所で仕込んでいたものだ。明日もまた一冊、新しい本が出来上がってくる。
作家になる準備も、どうにか58歳までには間に合ったようだ。こちらのほうは、あまり急ぐことはないだろう。余生を送るために準備した、最後の職業だから。
処女作が、半年で1万4千冊ほど売れている。第2作と第3作を、きちんと書いていけばよい。次は短編集で、その次は、はじめてのフィクションを予定している。
10年間で、ハーフマラソンでは47都道府県を完全制覇できた。東京マラソンでは、とうとう念願の「サブ4」を達成している。その間にも、体重は、61~63KGを維持している。
10年前から、すこしずつ酒量が増えている。そのことだけは気になるが、それも、週一は抜こうと思えば抜けるくらいのものだから、それほど心配はしていない。視力の衰えと顎関節症は、老化のせいだろう。だれでもが通っていく道だ。
後継者が定まっていない仕事がいくつか残されている。唯一の心配事だ。
「永遠というものはどこにもない」。そう、60歳になりかけている今、その感慨を一言で表現するとすれば、この言葉に尽きるのだろう。
自分が歩いてきた道を振り返ることなどない。後悔はないのだが、あと10年と思うと、ううん、微妙だな。永遠か。