農業生産法人グリーンリーフの澤浦彰治社長が、『日経ビジネス』8月8‐15日の合併号で、重要な提言をしている。直言極言欄で、「遺伝子組み換えは必要か」(=不要)という主張を展開している。日本の農業の現状を見る限り、わたしも澤浦氏のGMO不要論に賛成である。
一般論として、わたしは、GM(遺伝子組み換え農作物)の完全否定論者ではない。
澤浦氏もおそらく同様な立場に立っているものと想像する。なぜなら、近代的な経営に基づく、大規模農業を志向している人間が、植物の遺伝子操作の有効性を全く否定するとは思えないからだ。
あくまでも、以下の主張は、「いまの日本」という時代的な限定がついた上での主張である。そのように考えていただきたい。将来は、農業を取り巻く環境が変わるかもしれない。
日本農業の現実に関して、わたしは以下のように考えている。
わが国の農業の潜在的な生産性は、国際的にみて決して低くはない(浅川氏の書籍を参照)。そして、農業改革のフロンティアは、科学技術的な育種技術や生産性の向上にあるわけではなく、以下に示すような制度的な改革を通して、低生産性の壁を壊していくことである。
GMOを導入することは、むしろ誤った幻想を蔓延させる可能性がある。つまり、耐病性に強く(栽培のリスクが低く)、多収性の(より経済的な)作物を導入すれば、問題のすべてが解決する。しかし、農業に関係する種々の制度をそのままにして、播種する作物を変えても、根本的な解決にはならない。
それどころか、中途半端なGMOの導入は、海外と同一品種を導入することで、国内農業の比較優位をますます失わせてしまうだろう。考えてみるとよい。
モンサント社が開発した種子を使って、イリノイ州やミネソタ州の大規模農家が、穀物メジャーのためにコーンや小麦、ジャガイモを栽培している。その同じ種子を使って、日本国内で大規模栽培したところで、広大な北米や南米、オセアニアの大規模農家と戦えるだろうか?それとは、逆だろう。
たとえば、大豆の栽培を考えてみるとよい。日本で作るべき品種は、当面は、おそらくはしばらくの間は、日本の気候風土に合った在来種にあるだろう。生産性云々と、それは無関係である。したがって、外来のGMOの採用は、国家種子戦略としてもNGなのである。
そのための「言い訳」を、農水省は考えるべきである。自民党政権の時のほうがまだましのように見えるのは、わたしひとりの思い込みだろうか? この点においても、民主党政権の政策がはっきりしない。そのため、どさくさに紛れて、一部の巧妙な利益集団が、漁夫の利でGMOを認可してしまうことが起こりうる。
繰り返すが、農業の低生産性は、現行の制度の問題である。
そのためには、(1)農地法の改正(農地の流動化)、(2)株式会社の農業参入(資本の自由化)、(3)農業労働者の移民問題と期間雇用(担い手の確保)、の3点セットを推進しなければならない。
そんなときに、海外種子資本と輸入商社が主張するがままに、十分な議論を経ないで、GMOを認めることは禍根を残すことになるだろう。
澤浦氏が主張するように、日本でGMOを認可しても、農産物の価格は下がらない。日本の農業が改革するチャンスを逆に奪ってしまう。
GMOは、原子力発電と構造的によく似ている。つまり、短期的には経済性も耐病性も高いように見えるが、長期的な安全性(気候変動や病害虫の発生による壊滅死のリスク)は、テストで証明されているわけではない。
遺伝子組み換え技術は、生物の多様性(多品種生産によるリスク低減)を保持する方向には向かわせない。技術そのものは、種に対して中立的ではあるが、経済的な帰結は、生産方式をモノカルチャー化(単品大量栽培)に向かわせる。この点に関しては、まだ結論が出ていない。
というわけで、現状を考えると、日本の農産物市場に、GMOは当面は不要だと主張すべきではないだろうか。積極的な導入の根拠に乏しい気がする。日本が農産物輸出大国になったら、あらためて考えればよいのではないだろうか?
澤浦氏の見解に、その意味では、大いなる賛成票を投じたい。