来週水曜日(2月4日)に、新ゼミ生たちに配布する予定の「参考資料」です。この参考資料は、新田美砂子さんの出版用ドラフトをわたしが編集したものです。新田さんの許可を得て、学部生の教育用(読書感想文の書き方)に配布することにしました。
はじめに:「野菜が主役」の料理法(Misako’s メソッド)が誕生するまで
(V2:20210127) 小川編集済み
「今ある野菜を上手に活かしたい」
この想いが、この本のテーマである「野菜が主役の料理法」(Misako’sメソッド)の原点です。わたしは野菜を見ると、「この野菜をどうやって食べたら美味しくなるか」ということを反射的にあれこれ妄想してしまいます。自分が食べたいものや作りたい料理の「パーツ」として野菜を考えるのではなく、あくまで野菜を中心に、つまりは「野菜ファースト」で料理を考えています。
それは、野菜の多様性と本来の美味しさを、多くの人に知ってもらいたいと思うからです。料理や商品というツールを通して、野菜に興味関心をもってもらいたいという想いの表れかもしれません。ここが、料理を仕事にしている一般の人たちと自分がいちばん違う点ところです。
食に関わる仕事を初めてから約20年経ちました。単に野菜を食べるのが好きというだけでは、ここまで長く野菜に関わってこなかったと思います。野菜の面白さや奥深さに惹きつけられて、ここまできました。なぜこんなにまで野菜に魅了されたのかというと、野菜は、人間と同じように、「世界にひとつだけのオンリーワン」の生き物だからです。そして野菜との出会いは「一期一会」だと思っているからです。
人も野菜もそれぞれ個性があります。相手の個性を受け止め、寄り添えば良い関係を築くことができます。野菜の良いところを引き出した料理は人を惹きつけます。そして人のお腹も心も満たす力を持っていることを、食に関わる仕事の中で感じてきました。よいところを引き出すためには、引き出す方が柔軟であるほうがよいのだと思います。
メソッドの「これがなければ作れない」と思うのではなく、「これがあればあれもこれも美味しく作れる」という発想は、私がこれまで出会った沢山の食べ物、多くの方々、そして様々な体験から生まれたものなのだと思います。
欧米食文化の洗礼
私は1歳からずっと東京都港区白金台で育ちました。「シロガネーゼ」という言葉があります。白金台はオシャレで高級住宅街というイメージですが、私が小さい頃は商店が立ち並び、魚は魚屋で、肉は肉屋で、鶏は鶏肉屋で、野菜は八百屋で母は買い物をしていました。私は母についてよく買い物に行きました。特に鶏屋さんが大好きで、ひき肉を注文するとその場で挽いてくれて、お肉が小さい穴からニョロニョロと出てくる様子を喜んで見ていました。もも肉を注文すると、店主がみごとな包丁さばきで肉を開く様が今でも目に焼き付いています。
実家は、もともと学術的な洋書を扱う輸入商社を経営していました。海外との接点がとても多い家でした。海外出張の多い父は、海外で食べておいしかったものを我が家の食卓に運んできました。近所には外国人住宅がありましたから、公園でアメリカ人やカナダ人の子供達と遊んでいました。その子の家で海外のおやつを食べたり、誕生日パーティーに呼ばれたりすることもありました。
欧米の文化が身近にあった「バタ臭い家庭」で育ったこともあり、私にとってのおふくろの味は、「ミネストローネスープ」でした。当時としては珍しかったオリーブオイルを青山の紀ノ国屋で買って、母が刻んだ野菜を炒めていました。小学生の頃、ワッフルメーカーで作ったワッフルを食べた友人が、「美砂子の家にいくと珍しいものが食べられるね」と言っていたのを覚えています。両親は今でも毎朝サラダを欠かさず食べています。野菜料理が豊富な家庭でした。また新しいものが好きで、両親は当時としては珍しいイタリア料理のお店などに連れていってくれました。
このようなバタ臭い家で育ったのですが、私の母は四代以上続いた生粋の江戸っ子です。私は東京の下町と山の手の「ハーフ」ということになります。江戸っ子の血が流れているからでしょうか、お正月やお祭りの時に、母の実家や親戚の家で皆が集まって食べる下町のちょっと甘辛い味付けのお料理も好きでした。私が異なる文化のものを取り入れることや、新しいものを試すことに抵抗がないのは、子供の頃の家庭環境によるものだと思います。
牧場のおかみさんになる
大人になり縁があって、畑と林に囲まれた千葉県成田のサラブレッド牧場で約25年生活をしました。ネオンが眩しい都会のど真ん中から、真っ暗な夜の空の月が明るい場所へ移り住んだわけです。最初は言葉や習慣に戸惑いました。北総地域の独特な表現に戸惑いました。
その当時、町会で近所の家の葬儀の手伝いにいく習慣があって、そこで料理を女衆が作るのです。きんぴらごぼうを作る手伝いをしていて、私がきんぴらごぼうにお酒を入れようとしたら、「なんで酒なんかいれるのよ」と言われて、煮物に酒を使わないこともあるのに驚きました。一種のカルチャーショックです。しかし時間が経つにつれて生活のちがいにも慣れて、近所の家でこたつに入って自家製の漬物や煮物をつまみながら、お茶を飲んでおしゃべりするのが幸せな時間だと思うようになりました。
私は牧場の中に住んでいたので、自然に囲まれた生活をしていました。春は竹林で筍を堀り、野原でノビルを採って酢味噌和えにしたり、庭のタラの芽をとって天ぷらにしたりしていました。庭で小さな畑を作って、野菜も作っていました。野菜を作ってみると、植物として野菜がどんどん変化していく様子がわかります。
畑で育った野菜は、スーパーの野菜とは状態が異なります。調理の仕方も臨機応変に変えたほうがよいことに気づきました。例えば、加熱しないと食べれないはずの絹さやが、採れたてならば生でも美味しく食べられます。実がパンパンに膨らんだ絹さやはうま味が強くて煮ると美味しいということです。畑の野菜で料理を作ることが、いつしか私の楽しみになりました。
近所の人達は皆さん、自家用の野菜を作っていました。取れたての野菜をおすそ分けでもらうことがよくありました。都会だと沢山あげるのは迷惑になりますが、田舎だとちょっとだけ差し上げるのは逆に失礼という感覚になります。キュウリもナスもダイコンも山盛りにもらうのが当たり前です。一度では食べきれない量で、しかも形も不揃いだったりします。傷がついていたり、割れていることもあります。そういった野菜を、それをあれこれ料理して使い回す日々でした。大量に消費できる料理や、割れてしまったカブや、風で傷がついた硬いナスなどを、どうしたら美味しく食べられるかいつも工夫をしていました。
牧場で働いていた岩澤さんという方に、私は孫のように可愛がっていただきました。そして、食にまつわる様々なことを教えてもらいました。地元で昔から食べられている味噌ピーの作り方や、漬物の漬け方の料理の仕方などです。また一緒に畑をやりながら、野菜の育て方から下処理の仕方、保存方法なども教えてもらいました。都会育ちの私が、自分の家の米や野菜を食べる生活を身近に感じることができたのは、岩澤さんのおかげです。
おかみさんとして牧場の仕事もしていました。住み込みの従業員の食事は、ふだんはパートさんにお願いしていましたが、お盆やお正月などは私が作っていました。私は料理を作るのが速いとよく言われるのですが、まかないをやっていたからかもしれません。また、手頃な食材でお腹をいっぱいに満たすようなメニューを考えなければならないので、レパートリーが自然に増えていったのだと思います。
食の仕事がしたい
牧場は動物相手の仕事です。365日休みなく働き、生き物相手で予期せぬことがよく起こります。農業にも似ているところがあります。日々色々なことに対応していくうちにあっという間に一年が過ぎていきます。そんな生活の中で、牧場のおかみさんとは違う仕事をしてみたいと思うようになりました。
高校時代はお菓子を習っていました。学校の図書館では料理の本を借りて、レシピをノートに写していたくらいに料理が好きでした。私は、いつか食に関わる仕事をしてみたいと思うようになっていたのでした。下の子供が小学校に入った時に、アメリカに「パーソナルシェフ」という仕事があることを知りました。いわゆる「料理代行業」です。日本でもこういう仕事があってもいいのではないかと思い、自分流にアレンジをして、おかずを3品届ける仕事を始めました。約20年前のことになります。
近所の共働きのご家庭や忙しいご家庭などがお客様で、週に数回提供していました。このサービスを通して、他の家庭の食の事情や困り事が見えてきました。特に野菜が食べたいけれど、なかなか沢山は食べられないとか、野菜料理がいつもワンパターンになってしまう悩みを抱えている人が多いことを知りました。
野菜嫌いなお子様に出会ったときのことです。そのお子様が嫌いな野菜の切り方と調理法を変えて提供したら、野菜が好きになったという経験がありました。野菜は料理の仕方で、人を喜ばせることもできるし、その人の食生活を変えることもできることに気づきました。そして、この面白さを人にも知ってほしいと思うようになりました。
野菜料理を教室で教える
パーソナルシェフをやっていた時に、新聞の片隅の記事に「ベジタブル&フルーツマイスター(現・野菜ソムリエ)講座」というのを見つけました。すぐに資料を取り寄せ、成田から新宿まで通って資格をとりました。これが、「教える」という仕事のきっかけです。
あるイベントで野菜の説明をしていた時に、協会のスタッフの方から、「新田さんは教えるのに向いているんじゃない?」と言われました。それまでは教えることに興味がわかなかったのですが、この一言がきっかけで、半年後に「お野菜の料理教室」をスタートさせていました。
この教室では、野菜料理だけでなく、野菜の選び方や保存方法、下処理の仕方などの基礎知識も一緒に教えました。野菜を使った新しいスタイルの料理教室にしました。教室で工夫を凝らした点は、「食べ比べ」という手法を取り入れたことです。タイプや品種の違う野菜や果物を同時に比較しながら食べることです。ちょっと珍しい野菜を手に入れて、それを紹介して試食をしてもらったり、食育的な要素も取り入れていました。座学と体験学習を盛り込んだ独自の研修スタイルは、この教室がスタートです。
成田ではじめた野菜の料理教室ですが、ラジオ番組がきっかけで、東京の南青山に教室の場所を移しました。教室を主宰し始めたとほぼ同時に、メディアで野菜料理を紹介したり、企業様のタイアップの仕事も経験させていただくことになりました。野菜ソムリエの講師を始め、学校などでの食育や、野菜の摂取を推進するための講演など「教える」「伝える」仕事を依頼されようになりました。
コンサルタントに転身する
料理教室で教えるようになってからのことです。野菜の生産現場に興味を持つようになりました。あるとき、野菜の生産や販売のコンサルタントをしている方に巡り合って、全国のあちこちの生産現場に連れて行ってもらいました。それまでは、庭の畑と家の周りの小さな畑しか知らなかった私が、規模も環境条件も違う畑を沢山見ることになりました。そこで知ったことは、同じトマトでも、品種と作る人、作り方でまったく違うトマトができることを肌身で感じたことです。
そうこうしているうちに、2009年に農水省が企画した助成事業「マルシェ・ジャポン」の立ち上げに関わることになりました。生産現場を見るようになってからは、企業のアドバイザーの仕事が増えていきます。料理を教える仕事からはしだいに離れて、野菜の販売の仕事に携わることになりました。マルシェに出店する生産者のサポートやプロデュースを通して、全く異なる世界を体験しました。
出展者の売上を作る仕事が主でしたが、試食販売やディスプレイの企画、声掛けなどを行いました。毎回トライ&エラーの連続でした。そこで気づいたことは、野菜の中でもよく売れるアイテムと売れないアイテムがあることでした。同じ野菜でも、アイテムごとに売り方を変えないと売れないことを経験しましたので、必死に売り方の工夫をしました。
マルシェをきっかけに、栃木県や福島県などの農業生産者へのアドバイスの仕事が増えていきました。一日に何軒もの生産者を回って、ぶっつけ本番でアドバイスを求められることもよくありました。生産者が加工と販売にコミットする「農業の六次産業化」が盛んになってきたころでした。この仕事を通して強く感じたのが、各地の商品開発に携わって人たちが、食品としての農産物の特性に関して情報や知識をほとんどもっていないことでした。
また、ホテルのフードフェアの企画や、東京銀座にある茨城県のアンテナショップのプロデュースにも携わるようになりました。店舗内のキッチンで作るメニューの開発は、これまでの開発とはまた違ったものでした。コンセプトの立ち上げから関わらせていただいたので、商品開発やメニュー開発をトータル的に手掛けさせてもらいました。
経営大学院の門をくぐる
私の人生は予期せぬ展開の連続かもしれません。いつの間にかコンサルタント的な仕事をするようになりましたが、これが本来の自分の仕事なのかどうか、このまま続けてよいのかと不安を感じるようになりました。
そのような折に、異業種交流会で菅谷さんという方にお会いしました。名刺を渡して話をしていたら、「あなたに是非会わせたい先生がいる」と言われました。あれよあれよとアレンジされて会ったのが、法政大学経営大学院の小川孔輔教授でした。野菜というと農業系の大学というイメージだったのですが、食や農業に関するマーケティングという点ですごく興味をもち、まさかの展開でMBA(経営大学院)に入学することになりました。
それまでの仕事は、メニュー開発や商品開発でした。企画が終わったものを、実際に販売してみる仕事が多かったのです。しかし、コンセプトが明瞭でなかったり、その中には無理のある企画もありました。特に農業や食の現場を知らない人が書いた企画は、どこか現実的的でないことが多く、誰もハッピーにならないことを感じていました。そこで、食と農の知識と経験に加えて、マーケティングの考え方を身に付けたらと思いました。もっと世の中で役に立つコンサルタントになりたいという想いを持って大学院に入学しました。
大学院での2年間は、マーケティングをはじめとして、ビジネスの知識の体得が目的でした。それと同時に、全く異なる職業や年齢の友人達との切磋琢磨の中で、自分のこれまでの仕事を振り返って見直すことができました。大学院の修士論文では、プロジェクトと呼ばれる「事業企画書」(ビジネスプラン)の作成に取り組みました。
Misako’sメソッドの誕生
最初は、テーマがなかなか決まらず、ずいぶん苦しみました。最後の最後で、小川先生から、「美砂子さんが持っている野菜の知識と料理の方法、これまでコンサルタントしての経験をいちど棚卸してみたら?自分がやってきた野菜料理の方法を論理的に整理してみなさい」とアドバイスをいただきました。それを論文としてまとめたのが、「Misako’sメソッド」になります。一言でいえば、「野菜が主役の料理法」です。
修士論文を書くという作業は、自分が持っている「暗黙知」を一般の人でも理解できるような「形式知」に落とし込むことでした。この作業は、一人では到底できません。小川先生をはじめとして大学院の先生や友人達の手を借りて、自分の野菜料理の方法を論理的に説明することになりました。そして、論文をきっかけに、私自身が「教える」「伝える」という仕事に再び注力していきたいと思うようになったわけです。
美味しい料理を作れる人も、いいレシピを書ける人もきっと世の中には沢山いらっしゃいます。しかし、「料理の組み立て方」を伝える人はこれまではほとんど存在していません。従来からある料理法では、それが必要なかったからです。「レシピ」にこそ商品価値があったので、料理を論理的に組み立てることを教えることは、ある意味ではタブーだったからです。
ところが、経営大学院を卒業して三年経過した間に、食を取り巻く環境は大きく変化しました。たとえば、「すでにあるものを活かす」というサスティナブルな考え方が浸透しはじめています。野菜料理でも商品開発においても、すでにある食材を創意工夫して利用する必要性を感じる人が増えてきました。
それに加えて、ネットで調べてわかるような知識や情報は簡単に陳腐化してしまいます。人々が求めるものが変わってきました。私が頭の中でなんとなく工夫してきた料理の方法(暗黙知)を、この本で明文化してお伝えすることで、読者の皆さんが料理を楽しいと思えるようになることが私が希望することです。そしてなによりも、上手に野菜を料理することで、美味しいい食生活が楽しめるようになります。
これが本書の狙いになります。食材としての野菜のおもしろさと調理法の多様性に気づいていただくきっかけになれば幸いです。