【参考資料(オリジナル)】新田美砂子「Misako’s メソッド:イントロダクション」

 最後になります。新田美砂子さんのオリジナル原稿です。前回アップしているのが、編集済みの原稿になります。修正部分を解説してあるのが、「応用編:5節と6節です」。文章も、理論的な道具を駆使して、文章が美しく変わるというのが「wansukeメソッド」のユニークなところです。

 

イントロダクション(野菜が主役の料理法)

 (V1:20210120) 新田美砂子さんのオリジナル原稿

 

 この本の主題であるメソッドは「今ある野菜を上手に活かしたい」という想いが原点です。私は野菜を見ると、「この野菜をどうやって食べたら美味しくなるか」ということを反射的にあれこれ妄想してしまいます。自分が食べたいものや、作りたいもののパーツとして野菜を考えるのではなく、あくまで野菜ファーストで考えています。それは野菜の多様性や美味しさを多くの人に知ってもらいたいからで、料理や商品というツールを通じて、野菜に興味関心をもってもらいたいという野菜への想いの表れかもしれません。そこが一般的な料理の仕事をしている人達と違う点かもしれません。
 私が食や野菜に関わる仕事を初めてから約20年経ちました。単に野菜を食べるのが好きというだけでは、ここまで長く関わってこなかったと思います。野菜の面白さや奥深さに惹きつけられて、ここまできました。なぜこんなにまで魅了されたのかというと、野菜は、人間と同じように、「世界にひとつだけのオンリーワン」の生き物だからです。そして野菜との出会いは「一期一会」だと思っています。

 人も野菜もそれぞれ個性があります。相手の個性を受け止めて、寄り添ったり、工夫するとよい関係を築くことが出来ます。野菜の良いところを引き出した個性が光る料理は人を惹きつけます。そして人のお腹も心も満たす力を持っていることを、これまでの食に関わる人生の中で感じてきました。よいところを引き出すためには、引き出す方が柔軟であるほうがよいのだと思います。

 メソッドの「これがなければ作れない」と思うのではなく、「これがあればあれもこれも美味しく作れる」という発想は、私がこれまで出会った沢山の食べ物、多くの方々、そして様々な体験から生まれたものなのだと思います。

 

 欧米文化
 私は1歳からずっと東京都港区白金台で育ちました。シロカネーゼという言葉がありオシャレで高級住宅街というイメージですが、私が小さい頃は商店が立ち並び、魚は魚屋、肉は肉屋、鶏は鶏肉屋、野菜は八百屋で母は買い物をして、私はよくついて言っていました。特に鶏屋さんが好きで、ひき肉を注文するとその場で挽いてくれて、お肉が小さい穴からニョロニョロと出てくる様子や、もも肉を注文すると、みごとな包丁さばきで美しく肉を開く様が印象的で今も焼き付いています。
 私の家はもともと専門洋書からスタートした学術情報の輸入商社を経営しており、海外との接点がとても多い家でした。海外出張の多い父は、海外で食べておいしかったものを我が家の食卓に取り入れていました。また、近所に外国人住宅が集まっていたので、公園でアメリカ人やカナダ人の子供達と遊んだり、その子の家で海外のおやつを食べたり、誕生日パーティーに呼ばれたりすることもありました。ですから、欧米的な文化が身近にあった家庭で、ちょっと古い言葉で表現すると、かなりバタ臭い家でした。
 誰にでもおふくろの味というのがあると思いますが、私のおふくろの味は「ミネストローネスープ」です。その当時とても珍しかったオリーブオイルを青山の紀ノ国屋で買って、母が刻んだ野菜を炒めていたことを覚えています。小学生の頃、友人が我が家でワッフルメーカーで作ったワッフルを食べて、美砂子の家にいくと珍しいものが食べられるねと言われたのを覚えています。両親は今でも毎朝サラダを欠かさず食べていて、野菜料理が豊富な家庭だったのだと思います。また新しものが好きで、当時珍しかったイタリア料理のお店などに連れていってくれたことも覚えています。
 このようなバタ臭い家で育ったのですが、私の母は四代以上続いた生粋の江戸っ子で、私はいうなれば東京の下町と山の手のハーフです。江戸っ子の血が流れているからでしょうか、お正月やお祭りの時に、母の実家や親戚の家で皆が集まって食べる下町のちょっと甘辛い味付けのお料理も好きでした。私が異なる文化のものを取り入れることや、新しいものを試すことに抵抗がないのは、このような子供の頃の家庭環境から生まれたものかもしれません。

 

 牧場のおかみさん
 大人になり縁あって都会のど真ん中から、畑と林に囲まれた千葉県成田のサラブレッド牧場で約25年生活をしました。ネオンが眩しい都会のど真ん中から、真っ暗な夜の空の月がこんなにも明るいのだと初めて知るような場所へ移り住んだわけです。最初は近所の人の言葉や習慣に戸惑いました。北総地域の言葉は少し独特な表現があり、わからなくてぽかんとしてしまったこともありました。その当時、町会の近所の家の葬儀の手伝いにいく習慣があって、そこで料理を女衆が作るのですが、きんぴらごぼうを作る手伝いをしていて、私がきんぴらごぼうにお酒を入れようとしたら、なんで酒なんかいれるのかと怒られるように言われて、煮物に酒を使わないこともあるのに驚いたこともありました。一種のカルチャーショックです。しかし時間が経つにつれ慣れてきて、いつしか近所の家で、こたつに入って自家製の漬物や煮物をつまみながらお茶を飲んでおしゃべりするのは、私にとって幸せな時間だと思うようになりました。
 私は牧場の中に住んでいたので、自然に囲まれた生活をしていました。春は竹林で筍を堀り、のびるを取って酢味噌和えにしたり、庭のタラの芽をとって天ぷらにしたりしていました。庭で小さな畑を作って、野菜も近所の人に教わりながら作っていました。畑で野菜を作ってみると、植物として野菜がどんどん変化していく様子が手に取るようにわかります。畑の野菜はスーパーの店頭の野菜とは状態が異なり、調理の仕方も臨機応変に変えたほうがよいことに気づきました。例えば、加熱しないと食べれないと思っていた絹さやが、採れたてならほぼ生でも美味しく食べられることや、実がパンパンに膨らんだ絹さやはうま味が強くて煮ると美味しいということです。畑の野菜で料理を作ることがいつしか私の楽しみになりました。
 また近所の人達は、皆自家用の野菜を作っているので、出来た野菜をおすそ分けでもらうことがよくありました。都会だと沢山あげるのは迷惑になるという風潮ですが、ちょっとだけ差し上げるのは失礼という感覚で、キュウリもナスもダイコンも沢山もらうのが当たり前で、大概一度では食べきれない量です。しかも形も不揃いだったり、傷があったり、割れていることもあります。そういった野菜を、それをあれこれ料理して使い回す日々でしたので、大量に消費できる料理や、ちょっと割れてしまったかぶ、風で傷がついた硬いナスなどを、どうしたら美味しく食べられるかいつも工夫をしていました。
 牧場に働いていた近所の岩澤さんという方に孫のように可愛がってもらい、様々なことを教えてもらいました。地元で昔から食べられている味噌ピーの作り方や、漬物の漬け方などです。また一緒に畑をやりながら、野菜の育て方から下処理の仕方、保存方法なども教えてもらいました。都会育ちの私が、自分の家の米や野菜を食べる生活を身近に感じることができました。
 牧場のおかみさんとして牧場の仕事もしていました。住み込みの従業員の食事は、パートさんにもお願いしていましたが、お盆やお正月などは、私が作っていました。私は料理を作るのが早いとよく言われるのですが、まかないをやっていたからかもしれません。また、手頃な食材でお腹いっぱいになるようなメニューも考えなければならなかったので、レパートリーが増えたのかもしれません。

 

 食の仕事をしたい
 牧場は動物相手の仕事ですので三百六十五日休みがなく、生き物相手で予期せぬことがよく起こります。これは農業にも似ている点があります。日々色々なことに対応していくうちにあっという間に一年が過ぎていく中で、おかみさんとは違う自分の仕事をしたいと思うようになりました。
 高校時代にはお菓子を習っていましたし、学校の図書館で料理の本を借りて、レシピをノートに写していた程料理に興味を持っていた私は、食の仕事をしてみたいと思うようになりました。下の子供が小学校に入った時に、たまたまどこかの記事でみたアメリカのパーソナルシェフという仕事が面白そうだと思い、日本でもこういう仕事があってもいいのではないかと思って、自分流にアレンジをして、おかずを3品届ける仕事を始めました。今でいう「料理代行」ですが、今から約20年前のことです。

 近所の共働きのご家庭や忙しいご家庭などがお客様で、週に数回提供していました。このサービスを通して、他の家庭の食の事情や困り事が見えてきました。特に野菜が食べたいけれど、なかなか沢山食べられない、野菜の料理がいつもワンパターンになってしまう悩みを抱えている人が多いのだということを感じました。

 ある野菜嫌いなお子様に出会ったのですが、そのお子様が嫌いな野菜の切り方と調理法を変えて提供したら、その野菜が好きになったという経験が、野菜は料理の仕方で、人を喜ばせることもできるし、その人の食生活を変えることもできる面白さに気づき、この面白さを人にも知ってほしいと思うようになりました。

 

 教える

 パーソナルシェフをやっていた時に、たまたま新聞の片隅の記事に「ベジタブル&フルーツマイスター(現 野菜ソムリエ)講座」というのを見つけました。これは面白そうだと思って、すぐに資料を取り寄せて、成田から新宿まで通って資格をとったのが、私が「教える」という仕事のきっかけになりました。
 それまでは、教えることに興味がなく、作って提供するほうがよいと思っていたのですが、あるイベントで野菜の説明をしていた時に、その当時の協会のスタッフに「新田さんは教えるのに向いているんじゃない?」と言われ、なぜかその時素直にその言葉が入ってきて、その言葉をきっかけに「教える」ということに興味が湧きました。そして半年後には、「お野菜の料理教室」をスタートさせました。
 この教室は、野菜料理を教えるだけでなく、野菜の選び方や保存方法、そして下処理の方法など知識を座学で話をしてから、その野菜を使った料理をするという全く新しいスタイルの料理教室にしました。また、「食べ比べ」といってタイプや品種の違う野菜や果物を同時に比較しながら食べたり、ちょっと珍しい野菜を手に入れて、それを紹介して試食をしてもらったり食育的な要素も取り入れていました。座学と体験学習を盛り込んだ私の独自の研修スタイルはこの教室がスタートです。成田での教室はかなり長い間続きましたが、ラジオ番組がきっかけでご縁があり、東京の南青山に場所を移して行っていました。
 教室を主宰し始めたとほぼ同時に、メディアで野菜料理を紹介したり、企業様のタイアップの仕事も経験させていただいたので、おかみさんとしてでなく、私個人として仕事をする機会が増えていきました。野菜ソムリエの講師を始め、学校などでの食育や、野菜の摂取を推進するための講演など「教える」「伝える」仕事を依頼されようになりました。その間、大手企業様をはじめ、かなり沢山の野菜料理のレシピを書きました。しかし、どんなに沢山のレシピを書いても、このレシピを見て野菜を食べようと思ってくれる人がどれだけいるのかと考えることもありましたし、講演活動やイベントで野菜を食べたほうがいいと伝えても、実際に野菜を食べることのハードルが高いことに、なにかモヤモヤとした疑問を持ち始めたのもこの頃です。

 

 コンサルタントに
 野菜の料理を紹介したり、野菜の啓蒙活動などをしているうちに、店頭に並んだ野菜だけでなく、野菜がどう作られているのかという生産現場に興味を持つようになりました。もっと自分の知らない野菜の世界のことを知りたいという願望が強くなっていたと思います。野菜の生産や販売のコンサルタントをしている方に巡り合って、全国のあちこちの生産現場に連れて行ってもらいました。

 野菜料理と、自分の小さな庭の畑と家の周りの畑の事しかほぼ知らなかった私が、規模も環境条件も違う畑を沢山見たことで、同じトマトでも、品種と作る人と作り方でこんなにも違うのだということを肌身で感じました。その方からは、「生産者は自分の作った野菜が一番だと思っている人が多いけれど、フラットに見なといけない。フラットに見る為には、たくさん見て学んで、自分の基準を持つことが大切だ」と言われたことが、私の農産物をコンサルティングする際のベースになっています。しかし、この時に私は自分がコンサルタントになるとは思っていませんでしたし、私の場合は知らないうちにそう呼ばれる仕事をやっていたというのが本当のところです。
 二〇〇九年に農水省が企画した助成事業「マルシェ・ジャポン」の立ち上げに関わることになり、料理を教える仕事とはほぼ離れていきました。野菜の販売の仕事に携わることになり、全く違う仕事で必死でした。マルシェやマルシェに出店する生産者サポートやプロデュースを通して、それまでの野菜を美味しく食べる料理を教えるのとは全く異なった世界を体験しました。出展者の売上を作るために、試食販売や、ディスプレイや声掛けなどを行いましたが、毎回トライ&エラーの連続でした。野菜の中でもよく売れるアイテムと売れないアイテムの差もあり、アイテムごとに売り方を変えないと売れないことも経験して工夫をしました。
 マルシェをきっかけに栃木県や福島県などの農業生産者へのアドバイスの仕事が増えていき、一日に何軒もの生産者を回って、ぶっつけ本番でアドバイスを求められることもよくありました。この頃からコンサルタントのようになっていったのだと思います。ちょうど六次産業化が盛んになってきたころで、六次化産品や地域産品開発などの仕事が増えていきました。この仕事を通して強く感じたのが、各地の開発に関わる人達の農産物の食品としての特性に関する情報や知識があまりないことでした。例えば、ジャムに向かないのに、巷ではジャムが人気だから無理やりジャムを作ろうとしてしまう等のケースなどです。このように農産物の個性を活かしていない商品作りは残念でもったいないと感じるようになりました。
 ホテルのフードフェアの企画や、東京銀座の茨城県のアンテナショップのプロデュースにも携わるようになりました。店舗内のキッチンで作るメニューの開発は、これまでの開発とはまた違ったものでしたが、コンセプトの立ち上げから関わらせていただいたので、地域らしさを形にする商品開発やメニュー開発をトータル的に手掛けさせてもらいました。

 

 畑と食卓を繋ぐ
 コンサルタントとして企業や生産団体、自治体等と商品開発やメニュー開発をする一方で、どうしたら一般消費者へ野菜の面白さや美味しさを知っていただけるか、いつも頭から離れませんでした。それまでも、三浦や千葉などで畑のイベントを運営してきたので、現場での体験が、生産者と消費者を繋ぐ最適な方法の一つだと確信していました。コンサルタントとして出会った生産者さんと一緒に、季節ごとに「畑の料理教室」「畑のワークショップ」などのイベントを行うことになりました。
 畑で行う料理教室やイベント料理は、あらかじめ材料を用意して作るものを決めておくスタイルではなく、その日その時に畑にあるものを、屋外で臨機応変に料理をするものです。私は、施設的な制限があったり、材料が限られているなかで、頭の中で組合せを考えたり、味付けを考えたりしている時が一番ワクワクします。時々「なぜそんなにパッとメニューが浮かんでくるのですか」と人に驚かれることがありますが、それは妄想する事に慣れていることと、妄想の仕方、つまり頭の中で私なりの料理の組み立て方があるのかもしれないとこの当時は何となく感じていました。

 

 経営大学院へ
 私の人生は予期せぬ展開の連続かもしれません。意識していない間にコンサルタント的な仕事をするようになり、果たしてコンサルタントは何をする仕事なのか、このまま続けてよいのかと不安を感じるようになりました。そのような折にフランクな異業種交流会で菅谷さんという方にお会いしました。名刺を渡して話をしていたら、「あなたに是非会わせたい先生がいる」といわれ、あれよあれよとアレンジされて会ったのが法政大学経営大学院の小川孔輔教授です。野菜というと農業系の大学というイメージだったのですが、食や農業に関するマーケティングという点ですごく興味をもち、まさかの展開でMBAに行くことに決めました。
 これまでの仕事の中では、メニュー開発や商品開発で、企画が終わったものを、実際に具現化する仕事が多かったのですが、コンセプトが明瞭でなかったり、無理のある企画もありました。特に食や農業をよく知らない人が書いた企画はどこか現実的でなくて、無理やり商品を作っても誰もハッピーにならないことを感じていました。そこで、食と農の知識と経験に加えて、マーケティングの考え方を身に付けることで、もっと役立つコンサルタントになりたいという想いを持って入学しました。
 大学院での二年間は、マーケティングを始めビジネスの知識の体得が目的だったのと同時に、全く異なる職業や年齢の友人達との切磋琢磨の中で、自分のこれまでしてきた仕事の棚卸と、今後自分が社会に対して出来る事を考える時間となりました。経営大学院の修士論文はプロジェクトと呼ばれ、自分のビジネスプランを書くものです。これまでの仕事からヒントを得てビジネスアイディアは湧いてくるものの、どこか引っかかってなかなか決まらず苦しみました。最後の最後に、私が持っている経営資源を考えた時に、あるのは自分の知識と情報と経験であり、それを社会に役立てることはできないかと思って、自分の頭の中を見える化することにしました。それがこのMisakoメソッドです。自分の暗黙知を形式化する作業は一人ではできず、小川先生を始め大学院の他の先生や、大学院の友人達の手を借りて、野菜料理を公式化した論文を書きました。この論文をきっかけに、私自身が「教える」「伝える」ということに再び注力していきたいと思うようになりました。
 美味しい料理を作れる人も、いいレシピを書ける人もきっと沢山いらっしゃいます。でも料理の組み立て方を伝える人はこれまでほとんど存在しませんでした。必要がなかったからですし、レシピに商品価値があったので、ある意味これまではタブーだったからです。しかし、経営大学院を卒業して三年経過した間に食を取り巻く環境は大きく変化して、あるものを活かすというサスティナブルな考え方が浸透しはじめています。料理においても、商品開発においても、創意工夫する必要性を感じる人が増えてきました。それに加え、ネットで調べてわかるような知識や情報は陳腐化されてしまい、人々が求めるものが変わってきたこともあります。私の頭の中で創意工夫をしてきた方法をこの本でお伝えすることで、創意工夫をすることの大切さや、面白さに気づいていただくきっかけになれば幸いです。