その日は、月曜日。授業はないはずで、朝早くに家を出ている。農水省に寄る用事があった。日比谷線の霞ヶ関駅出口すぐのところに本館がある。とくに問題がなければ、東銀座で日比谷線に乗り換えていたはずだった。ところが、その朝はなぜかJR総武線に乗り換えて先に大学に行ったらしい。
お昼の12時に、中学3年生で卒業した娘のともみと、わが奥さんと三人で、どこかで待ち合わせをしている(1995年3月の手帳から)。お昼を一緒にとろうとしていたはずだった。その後、SMITHくん(オランダの山本清子さんの息子さん)と14時に待ち合わせをしている。秘書の壁島美和さんが、研究室でのアポをとっていたはずである。
*ランチで待ち合わせたのは、いまはなき「レストラン三国」の市ヶ谷店「リヨン」だった。かみさんが、きちんと記録を残してくれていた!
以上、26年前の行動経路はあくまでも推測である。残されていた手帳の記録と、わたし自身のうっすらとした記憶を再現するとそうなる。しかし、事実がどうだったのかは本当のところはわからない。
先ほど、かみさんにLINEでメールしたのだが、いまのところ返事はない。もしかすると、東銀座の駅あたりで日比谷線に乗り換えていたら、わたし自身がサリン事件に巻き込まれていたかもしれない。娘とかみさんも、危なかったのかもしれない。
わたしたちが無事だったのは、単に運が良かっただけだろう。そういえば、サンフランシスコの大地震の時も、危機一髪で難を逃れている。家族の方がもっと危なかった。
1989年10月17日午後5時04分(現地時間)。サンフランシスコで大地震が発生した。この地震では多くの人命が失われている。偶然にもわたしの家族4人(妻と子供たち3人)は、地震が発生したこの時間帯に、カリフォルニア大学バークレイ校のキャンパス近くにある「フェアモントホテル」に滞在していた。
家族にとっては、5年ぶりの渡米ある。1982年から2年間、わたしはこのキャンパスで客員研究員をしていた。この秋は、子供たちの学校を休ませて、留学期間中にお世話になった元大学秘書のマーガレット・レブハンさん(マギーさん)に会うために、サンフランシスコに滞在していた。わたしが学会に参加するついでに、家族全員でサンフランシスコに飛んできていたのである。
大地震が発生した瞬間、わたしは家族をサンフランシスコに残して、ニューヨークの学会(TIMS/ ORSA)に参加していた。午後のセッションで発表を終え、夕方からの懇親会で飲んでいた時である。一緒に学会に参加していた日本人から、「小川さんのご家族は大丈夫ですか?」と言われて、西海岸の大地震の発生を知った。
東京に連絡を入れてみたが、無事はすぐには確認できない。サンフランシスコの現地とは連絡がつかない状態だった。空港にレンタカーを置いたままだったから、移動手段は電車だけ。壊滅状態に陥っているサンフランシスコ市内には、移動していないはずだった。翌日どうにか連絡が付いたが、今度は自分のことを思って身震いした。
大地震は、夕方のラッシュ時に起こった。対岸のオークランド市からサンフランシスコ市内に入るには、ベイブリッジを渡ることになる。そこにつながっている高速道路が倒壊してしまい、車も人もめちゃくに状態になった。それは、後でTVの映像で知ったことだ。わたしは、前日の朝早く(16日6時頃)、学会が開かれるニューヨークまで飛ぶため、この高速道路を渡っていたのだった。
地球の長い時間軸から言えば、わずかな時間差だろう。SF空港へ行くのにベイブリッジを渡り切ってから、大地震で高速道路が崩落するまで36時間程度。地層の滑りが少しだけ早く起きていれば、運転していたレンタカーごと、わたしもコンクリートの下でぺしゃんこになっていたかもしれない。サンフランシスコ湾に、車ごと転落したかもしれない。
地震や事故に関して、いままでは不思議と幸運に恵まれてきた。きっと神様が、わたしたち家族をやさしく見守ってくれているのだろう。二度の事件の当事者でもある、京都のむすめにも連絡してみようと思っている。彼女たちも、まかりまちがえば、地下鉄サリン事件の犠牲者になっていたかもしれないからだ。