商家の暮れ

今年は約400人の方に年賀状を出せていただきました。最近卒業していった学部ゼミ生や社会人大学院生には、新年に賀状を受け取ってから返信しますので、おそらくトータルの枚数は450枚を超えると思います。


年賀状は、わたしにとってプレイベートな性質のものです。ですから、送付先は、自宅の住所がファイルに登録されているひとに限られます。会社に送ることはありません。特別な事情でもなければ、仕事関係でいただく賀状には返信しないことにしています。毎年これだけでも数百枚あります。

 年賀状のタックシールを印刷していて思い出すのは、呉服屋を営んでいた父親の久(ひさし:82年没)のことです。当時はPCプリンターなどありませんから、父はいつも筆で宛名を書いていました。達筆だったからでしょう。お得意さんに送る年賀状は一千枚近くありました。暮れの数日間、父は肩こりでたいへんでした。そして、わたしたち子供の仕事は、父親のために墨を擦るすることでした。
 商家にとって、年賀状(新年の挨拶)は「顧客維持」のために欠かせない媒体です。記憶に鮮明に残っているのは、父親が顧客台帳をめくりながら、母親とその顧客の売り上げと支払い状態について、逐一具体的な数字をあげて延々と話していたことです。墨汁を作るために手を真っ黒にしながら、わたしは両親のコメントを聞いていました。形はちがえども、両親は原初的なデータベースを駆使して、「顧客資産」(カスタマー・エクイティ)を管理していたわけです。
 帯や着物は一点が数十万円もする高額商品です。両親は顧客が購入してくれた商品の柄、値段、そのときの様子(購入理由、同伴者)などをすべて空で覚えていました。クレジットカードがない時代なので、すべてが掛け売りになります。消費者金融は、「丸久:小川呉服店」が行わなけれがなりません。創業者の父は、いつも銀行からの借金と手形の心配をしていました。後にこれが、重度の糖尿病を患うほど深酒をする遠因になりました。
 商品が売れたはいいけれど、その後の回収作業がたいへんでした。年賀状は、顧客に対して「(借金の)リマインド効果」もあったはずです。わたしも、吹雪の中、自転車で雪道をこいで、掛け金の回収作業を手伝わされたことがあります。従業員が忙しかったこともあるのでしょうが、わざとあえて子供を使っていたように思える節もあります。子供が行ったほうが回収しやすい顧客があったのだろうといまになって思うところもあります。
 そうは言っても、掛け取りは子供ながらいやな仕事でした。大きくて立派な家もありましたが、雪に埋もれて傾いでいる古家もあります。そんな家の中から、腰の曲がったおばあちゃんが出てきたり、赤ちゃんを抱えた若い奥さんが出てきて、「兄ちゃん、申しわけないけど・・・」。
 中学生のころから、金にまつわるさまざまな人間模様を見て育ちました。父親の商売仲間が夜逃げをしたり、残された商品をやくざが回収にかかったのを父親が止めて、それを「競売品」にする交渉を目のあたりに見たのはスリリングな事件でした。それはまだましな方で、一時は羽振りがよかった商店主が借金苦で自殺に追い込まれたり、倒産が原因で一家心中に至ったり、思い出したくないことも年の暮れが多かったです。
 母親(ワカ)が当時のわたしに話してくれたことで、いまでも忘れられないことがあります。母親いわく、「どんな家でも、玄関に入った瞬間に、その家の財産や借金の状態、家族・親戚関係がみんなわかってしまうものなんだよ」。いまでもわが母親は冷静すぎて怖いところがあるけれど、玄関に入った瞬間にそれくらいのことが判断できないと呉服屋などといった商売はできないんだろう。そう思ったので、長男なのに跡取りになりませんでした。「性格的にこの商売はおまえには向かない」と両親に言われことも事実です。このアドバイスは当たっています。わたしは性格がやさしすぎるようです。
 大学で教師をやっていると、本当に年の瀬は楽だと思います。ひなたぼっこをしながら、Blattberg et al.(2001), ‘Customer Equity,’HBS の翻訳準備(7月にダイヤモンド社から出版予定)をしています。商家の皆さん、一年間、本当にご苦労さまでした。あと一日ですね。