大学院生が研究者として一人前になる瞬間

卒業を控えたこの季節は、大学教授にとっても、研究と教育にひとつの区切りをつけるときである。


わたしはといえば、1月3日以降の一週間で、大学院生の修士論文を5本、学部生の卒業レポートを4チーム分(プロジェクト形式)、博士課程の学生4人と学会の若手研究者7人のために、12本の論文(共同論文含む)と事例・調査報告書(一部は自分も関与)を編集・指導する作業に従事していた。というわけで、この10日間は、ホームページを更新する余裕がまったくなかった。

 明けて本日は成人式。わたしの2番目の子供、長男・由(ゆう)も本日めでたく成人することになるが、研究者にも「成人」のタイミングというものがある。リサーチャーが脱皮する瞬間、つまり一人前になれる条件について今日は書いてみたい。
 人間が生まれることを、英語では受け身で、”I was born”と表現する。誕生に自己責任はない。「運命的に強制的に、われわれは生ませられるのだ」。中学校で英語を学びはじめて最初に受けた感動だった。それが全知全能の神なのか、生んでくれた相方の父親なのか、もっと具体的には助産婦さんなのかは別にしても、誰かの手を借りないと人間は勝手に生まれてこない。英語の表現は、そう言っていることになる。
 誕生のときと同じで、良き教育や訓練を経験しないと、人間は自然な状態で成人を迎えることはできない。研究者が一人前になるときについても、それと同じことが言える。リサーチャーは、生まれるのではない。生み出されるものである。教師はその瞬間、手を差し伸べて、研究者の誕生に立ち会うことになる。だから、後々の責任も大きい。

 いつもこの時期には、自分のテーマを何とかものにしたいと悪戦苦闘しているたくさんの大学院生たちを見ている。研究の指導者として、何かを上手につかめるコツについて、われわれも否応なく考えさせられる。彼ら・彼女たちを見ていて思うのは、うまく変身・脱皮を遂げられる条件は、以下の5つではないかということである。
 修士論文の作成プロセスを例にして説明してみる。

(1)目線の変化:自己中心から他者の説得へ
 修士論文を書き始めるとき、学生たちは自分に向かって語りかけている。文体も研究の視点も自分中心的である。研究テーマや課題についても、己を納得させることに実は四苦八苦している。ところが、ある瞬間、テーマや課題について見通しがよくなってくる。そのとき、言葉を発する方向と表現の仕方が180度変わる。つまり、言葉が他者に向かうようになる。自分が獲得した知識を、他人に向けた説得のために使うようになる。そうした態度変化があればしめたものである。研究への取り組み姿勢がすでに変わっている。

(2)研究テーマについての独自性の確認
 わたしたちが最初に指導するのは、その分野の先行研究をきちんとフォローしておくことである。これには、二つの意味がある。ひとつは、研究の手薄なテーマやリサーチ分野を発見するためである。もうひとつは、自分が選んだ研究テーマの独自性がどのくらいのものなのかを明確にしておくためである。若手の研究者であれば、時として競合する先端研究が存在するわけで、そのために自分が立っている位置を確かめておく必要がある。体系的に先行研究をサーベイした学生は、よほどその分野が成熟しているのでなければ(金鉱が掘り尽くされているのでなければ)、わりに簡単に自分なりの課題や研究テーマを発見できる。そうなれば、あとは具体的な作業スケジュールに落とし込むだけになる。

(3)おもしろいテーマとの出会い
 文献リサーチを命じると、当然のことながら、人の仕事を引用することが多くなる。ある意味で、それは先がなかなか見えない苦行である。読み慣れない英語の文献も多いので、彼らは大いに不安を感じるようである。
 研究に実体を与えようと、一部の学生にしばしば見られるのは、初期の段階で達成感を獲得しようとして、アンケート調査などの企画に走るケースである。たとえば、よくある例を挙げると、企業の担当者にヒアリングに行く。とりあえず、わたしなどには内緒である。しかし、問題が明確でなければ、担当者から意味のある答えを引き出すことはできない。そうして実施された調査やヒアリングの結果は、後の論文ではほとんどが無駄になっている。具体的なデータ集めに本来の意義が見えてくるのは、やはりおもしろい明確な仮説に、本人がぶつかったときである。
 端で見ていても、その瞬間は偶発的である。運不運もある。能力的にあまりぱっとしなかった学生が、おもしろい課題を見つけて、すばらしい論文を書くことがある。競馬好きのわたしは、こうした事例を密かに「大穴」と呼んでいる。逆に、良い仮説(テーマ)に出会わないままに、卒業して行った優秀な学生を何人か思い出す。よく勉強ができて研究熱心だったのに、気の毒ではある。しかし、これだけはどうしようもない。運命である。

(4)自分をうまく乗せられるパーソナリティ
 先の「大穴」の事例に共通しているのは、その後の「創意工夫」と「乗りの良さ」のふたつの要因である。おもしろいテーマを発見したあとでも、本人に「エネルギー」(一般的な能力)と得意技と呼んでいる「技能」(創意工夫の一般表現)がないと、やはり良い論文は書けない。しかし、一般的に言えることは、自分でお金を払って大学院にまで入学してくる社会人学生は、このふたつの資質はまずまちがいなく兼ね備えていることである。
 日常働いているので、あとは時間のやりくりの問題が残る。働きながら50頁前後の論文を書くわけで、最後の数か月は、周囲に必ず迷惑がかかる。会社の仕事に穴を開けたり、家族との旅行などは来年まで持ち越しとなる。自分をうまく乗せられる性格でないと、周囲に迷惑がかかる事態を乗り切ることができない。できるというムードを作ってやったり、うまくテーマに取り組むようにのせてやるのも、部分的には指導する教師の責任である。

(5)良き仲間と競争相手の存在
 論文を書くということは、とても孤独な作業である。会社の仕事であれば、誰かに責任を押しつけることができる。会社の仕事は、本質的には組織による分担作業が基本単位である。これができないのが、大学院でのリサーチワークである。
 孤立感にうち勝てる条件は、良き仲間(サポーター)と競争者である。前者の条件を作るために、大学院の演習でも、ある程度の人数の規模が欲しくなる。たまたま、法政大学大学院のマーケティングコースの場合は、一学年で15~18人で運営されている。この規模であれば、互いに助け合うこともできる。合同発表会などを通して、研究の進行具合を互いがチェックすることは、健全な競争心を刺激することにもなる。年間を通して、学生をそうした環境に置くことは、精神安定と競争心惹起の両方の意味でよいのではないかと思う。