汽笛を5回鳴らして、石橋さんは船出した。午後7時少し前、フランク・シナトラの”MY WAY”が流れていた。夕暮れの船橋南埠頭。梅雨の真ん中、湿気で蒸し暑い。南極観測船しらせの甲板には、船出が終わっても、たくさんの社員の方が居残って名残りを惜しんでいる。
不治の病に冒されていたからなのか? 競馬が大好きだった石橋さんは、人生の最後に大きな買い物(ギャンブル)をした。本当のところは、知らされていない。単に、船が好きだったからではないだろう。
石橋さんが気象情報会社の「ウエザーニューズ社」を起こしたのは、破綻した総合商社の「安宅産業」の社員だった頃に体験したある不幸な事件がきっかけだった。
20代の商社マンだった石橋さんは、台風の進路を読み誤って、材木を積んだ船を小名浜港に寄せる指示を出した。荒海の中で船が沈没した。たくさんの船員の命が失われた。
すべては、船乗りに対する自責の念からのスタートだった。後に出版される自著にも、そのことに触れられている。わたしも、インタビュー記事でそのときのエピソードを紹介している。
ちなみに、南極探検をスコットたちと競った白瀬大尉は、わが秋田県出身の英雄である。白瀬大尉は、大きな借金を抱えて不遇のうちになくなっている。実妹の道子から、昨日そう知らされた。「秋田の人は生き方がへたくそだからね。お兄さんも、、、」。地方の英雄だった白瀬大尉は、不遇だったのだ。
世の中に立派な会社はたくさんある。しかし、石橋さんほど社員に愛された社長は見たことがない。社員の平均年齢は35歳。ドクターをたくさん抱えている「理科系」の会社なので、給与水準はかなり高い(>+500万円)。それでもこの会社を成長させ続けてきた。その努力たるや、すごいことだ。
子会社が世界中に散らばっている。親会社だった「オーシャンルーツ」を逆買収しているので、外国人も多い。式典の間に、わたしの隣に座っていた日本人が、英語でしゃべっている。相手は、アジア人である。石橋さんの会話の中には、ごくふつうに英語が混じっていた。
ときどき意味不明な「英語の短縮語」をたくさん使う人だった。「ブランド論」が好きだった。ものすごく人懐こかった。
最後に電話で話したのは、昨年の暮れだった。昭和40年代に経験した、後楽園スタンドのお天気おじさんの話を、雑誌に掲載する証拠集めのためだった。「今度またゆっくりね~」。あの携帯電話の番号は、どうなるのだろうか?
社員の方から帰り際に手渡された記念品のDVDには、「HIRO’S WAY」(石橋流)とあった。最後まで、石橋さんらしい流儀で、皆に別れを惜しませてくれた。
「ヒロ」を、「ヒーロー」と読んでみた。「WAY」の意味は、生き方、やり方だろうが、ここは、「流儀」と訳してみよう。ヒーロー流だ。DVDはまだ見ていない。いま石橋さんの声をひとりで聞くのはちょっとせつない。
石橋さんのことは、折に触れて思い出すことがあるだろう。そうだ、心に残る船出の会を、スクラップになりかけていた南極観測船の上で執り行うことを予期して、この船「しらせ」を購入したに違いない。
こんなに会社を愛していなければ、自分が起こした事業をいとおしく思わなければ、部下たちに愛されていることを確信していなければ、船の汽笛を鳴らして旅立つ劇のシナリオを自らが書いて、あの世に旅立っていくことなど、できはしないだろう。
見事な死に様だったよね。石橋さん!さようなら。