トルコ旅行日記#2: 国際チューリップシンポジウムの顛末@クラウンプラザホテル(アンカラから)

 国際チューリップシンポジウムは、午後15時半に無事に終わった。シンジャン郡長のムスタファ・ツナ氏(Dr. Mustafa Tuna)のあいさつではじまったパネルには、約400名の聴衆が詰めかけた。パネラーは、わたしとオーストラリア在住のトルコ人女性のふたりであった。


講演は立ち見が出るほど盛況だった。しかし、聴衆の多くが生産者なのか一般市民なのかは最後までわからなかった。まあ、トルコと日本の友好関係が大事なのであって、誰も中身がどうだったのかは気にしていない様子だった。最後に、たくさんのお土産(報酬)をいただいたことからすると、きっと満足をしていただいたのだろう。

 ちなみに、今回、チューリップ・フェスティバル(正確には、International Sincan Tulip Days 2010)でシンポジウムが開かれたのは、アンカラの郊外にあるシンジャン(郡)である。ここは、トルコ最大のチューリップの産地である。1971年から、チューリップ祭りが開かれている。
 ご存じのように、チューリップはトルコ原産である。厳密には、天山山脈の乾いた岩場がルーツと言われている。中央平原にいたトルコ騎馬民族が、のちにイスタンブールやアンカラに定住することになる。西アジアから欧州まで、オスマン・トルコ帝国(1299~1922)が広い地域を支配した。その時代に、チューリップの原種を欧州に持ち込んだのが、トルコのスルタン(皇帝)であった。これがきっかけで、オランダで球根バブルの熱狂が始まった。
 それから約500年が経過した。1970年代に、東欧諸国からの移民の手によって、チューリップはトルコに逆輸入される、ふたたび、アンカラ近郊の町(シンジャン地区)に持ち込まれたのは、園芸品種のチューリップであった。花弁の先が鋭った”スリムな”チューリップは、しばしばトルコ絵のモチーフになる。その原種との交配で、新種のチューリップの育種が進んでいると聞いた。シンジャン政府の役人、オナル氏の説明によると、2011年からは、4軒の農家が中心になり、2ヘクタールの育種農場をはじめることになっている。
 それは、トルコ政府、農務省(Ministry of Agriculture)の支援を受けてはじまるプロジェクトらしかった。わたしが招待されたのは、日本の育種の経験を期待してのことだったのかもしれない。シンポジウムでは、その要素を多少は取り入れた内容で話すことにはなった。しかし、通訳を介してのコミュニケーションだったので、真意はいまでもよくわからない。 とりあえずは、2010年が「トルコにおける日本年」だったから、招待を受けたのだといまでも思っている。
 
 さて、前日の夜中、アンカラ空港で責任者のオナル氏と会って、はじめてシンポジウムの概要を知った。打ち合わせがはじまった時に、時計はすでに夜中11時半を回っていた。とても眠たくて、会話に集中ができない。ホテルのロビーで、通訳の女性を介してわかったのは、プログラムの内容や進め方について、とくに決まりがあるわけではないということだった。パネルには、特別な司会者もいなかった。パネルといっても、各自が勝手に話したいことを話すだけである。
 わたしへのリクエストは、
(1)日本におけるチューリップ文化、
(2)日本式の庭園についての2点だった。
 ビジネスに関することは、不思議なことには、あまり強く求められていない。わたしがマーケティングの教授であることは、彼らには事前に知らされていなかった。
 前日になって、リクエスト項目がわかるのも、それはそれでたいへんなことではある。しかし、そんなものだろうと思っていたから、いくつかの資料を準備してきていた。富山県のチューリップ球根組合の藤岡さんからは、国産と輸入の球根生産のデータ。JFTD学園の今西英雄先生(元東京農大農学部部教授でチューリップの専門家)には、日本のチューリップの生産データを、2日前に送ってもらっていた。
 ふだんは絶対に持ち運ばないPCを、トルコ政府のために今回だけは持参してきていた。何がパネラーに求められているのか、情報がなかったからだ。修羅場にはめっぽう強い小川先生である。
 インドのバンガロールでは、プレゼンの途中で電源が落ちたことがあった。パワーポイントが使えなくなったので、つたない英語だけで、にこにこ笑って、10分ほど時間を持たせたこともある。だから、トルコの小さな町で、その場の空気を適当に読みながら、どうにでも対応ができる自信はあった。
 しかし、である、日本庭園について、わたしはほとんど知識を持ち合わせていない。だから、
 ①日本の庭園の形式は、日本人が自然をそのまま極小化して見せる哲学を背景にして生まれたこと、
②日本の工業製品が、すべてのものを小さくする技術に基づいていること
 (ただし、たとえ小さくても元の自然を完璧に復元するという技術による)、
③その結果として、日本の工業製品と日本庭園の作り方が共通の特性を持っていること、
 について話すことにした。

 そのあとの時間では、事前に用意してきた「日本におけるチューリップ産業の発展と輸入球根との競争」および「どのようにして海外との競争に対処すべきか」について、事前に準備していた内容をプレゼンすることに決めた。
 クラウンプラザホテル(アンカラ)での打ち合わせの時点で、カナダから招待されていた講演者(女性)は、アイスランドの噴火による火山灰の影響なのか、出演がキャンセルになっていた。飛行機が飛べないらしい。わたし以外のもうひとりの招待講演者は、ヒルカット・オズグン女史(Dr. Hilkat Ozgun)である。彼女は、オーストラリア在住のトルコ人のエンジニアで、大の親日家である。オーストラリアにおける「トルコと日本の友好年(2010年)」をトルコ在豪協会で組織している科学者だった。
 彼女の娘さんは、メルボルンの大学で日本語を習っていて、息子さんは日本に留学したいと希望している。なぜか、古川電工のために、ソーラー蓄電池を開発している。しばしば大阪に来るので、大丸百貨店で何が売られているかをよく知っていた。自分はサーモン以外にはすしネタはだめだが、お好み焼きについては実に詳しかった。
 
 話は前後するが、講演は、13時半からはじまった。打ち合わせでは、全体で90分の予定だった。オズグン女史が30分、オーストラリアでのチューリップ祭りの話を写真入りで紹介する。わたしは、英語からトルコ語への通訳が必要なので、やや長め(40分)になるかなとの予想だった。
 ところが、オズグン女史のチューリップ話は、はじまってから50分、14時30分をすぎても終わりそうになかった。スライドの枚数はいっこうに減っている様子が見られない。時間はどんどん過ぎていく。トルコ語なので、彼女のスピーチはまったく理解できなかったが、聴衆の反応を見る限りでは、来場者の興味をとくに引くものではないらしかった。
 予定の30分をすぎたことから、後ろのほうから、離席するひとが目立ちはじめた。勝手に外に出ていくのである。一番前に座っている来賓や議会議員たちも、携帯電話を片手に、勝手に立って外に出ていった。わたしは、マグロ群長(Mayor Tuna)のムスタファ・ツナ氏の表情を見ていた。立派な髭を蓄えた小柄なインテリ博士、ムスタファ・ツナ氏(名刺には、Ph. Dと書いてあった)は、困った顔で自分たちが招待した女史の講演を眺めていた。
 結局、予定時間を大幅に超えてスピーチが終わったのは、シンポジウム全体の予定終了時間の5分前だった。14時55分。いくらなんでも、わたしのほうは通訳を介しての講演である。正味で15分、合計30分は時間がほしい。
 通訳のギョンス・ビルギンさん(Miss Gonsu Bilgin)に、”How do you think about my presentation time?”(「わたしの話す時間はどうしましょうか?」)と尋ねてみた。“Up to you!”(「お好きなように!」)が彼女からの答えだった。

 わたしは、15時15分までの20分間で、なんとか話を終えようと計画を変更した。直観である。30分の時間超過では、聴衆がもたない。しかし、20分以下では、わたしがトルコまで来て招待講演をする意味がない。聴衆はずいぶんと退屈しているように見えた。当初の計画をすこしだけ変えて、ひと工夫することを通訳の彼女に申し出た。
  自己紹介は、簡単に3分で終えた。
(1)「トルコと日本の友好関係と類似性」については、やや長めに5分をかけた。エルトゥールル号の遭難事件、イラン・イラク戦争時のトルコ航空による日本人救出の話を伝えた。話し終わると、会場から拍手が沸いた。トルコでは、スピーチの最中にでも、話しに感銘を受けたり、内容について同意する場面では、フロアから自然に拍手が返ってくる。お国柄なのだろう。
 (2)「日本の庭園について」は3分間。予定していたより、手短に切り上げた。第一、あまり得意な話題ではない。準備もしてきていない。トルコの人に、英語で正しく日本人の哲学を伝えるのは、もともとむずかしい。実際、この部分は、あまり正確に伝わらなかったと思う。通訳からも、何度か「Pardon me」(「すいません、もういちど繰り返していただけませんか?」)で聞き返された。事前のメモを渡す余裕もなく、国際コミュニケーションが専門の大学院生、トルコ美人のギョンスさんには、すごく悪いことをした。
 残りの10分間で、(1)「日本におけるチューリップ文化」の話をした。チューリップは、15世紀に、オスマン・トルコから欧州に渡った。そのチューリップが、オランダから日本に渡って来たのが20世紀前半である。日本のチューリップ栽培の歴史は、わずか120年である。その時代は、アタチュルク大統領の指揮のもと、トルコが独立戦争によって共和国に生まれ変わるころである(1920年に、トルコ共和国が誕生している)。
 富山県の水野豊造氏が、チューリップの球根栽培をはじめたのが1918年である。のちに、栽培球数が増えたチューリップ球根は、沖永良部島のユリなどとともに、日本の代表的な輸出商品になる。しかし、1980年代には、オランダから低価格の隔離免疫免除の球根が輸入され始めた。切り花球根市場も大きくなったが、2000年を境にして、いまでは5球のうちの4球はオランダ産の球根に変わった。この部分は、かなり駆け足で話した。それでも、およそ5分間。
 
 わたしが話し始めた当初から、会場の舞台スクリーンには、カラースライドのPDFファイル(富山産のチューリップの写真)が投射されていた。国産球の絵を指し示しながら、オランダ輸入球根の約倍の値段であることを説明した。一時期は、オランダ球根もある程度の値段だったので、価格差はそれほどでもなかった(+20~30%)。それでも、国産が生き延びることができているのは、以下の3つの要因によるものである。
 ①(Development of new varieties)オランダにはない独自の品種を育種してきたこと、
 ②(Quality control)品質管理に気を使っていること、
 ③(Cost control)値段は輸入物の倍とはいっても、コスト・コントロールには努力していること。 

 もし、トルコがチューリップの育種に本格的に取り組むのであれば、以上の3つのことは、いずれもとても大切である。この瞬間に、会場の雰囲気が、弛緩した状態から、張りつめた空気に変わった。自分たちに、何が必要なのかがわかったからであろう。郡長のムスタファ・ツナ氏も、前に乗り出すようにしてわたしの話を聞いていた。

  スピーチの最後は、サービス演出である。投影されスライドには、日本で育種されたチューリップが大写しにされている。ジャパン・オリジナル の28品種である。富山産のチューリップをポインターで指し示しながら、聴衆に問いかけてみた。
 「日本人がもっとも好むチューリップの色は、なに色だと思いますか?」(”What is the most favorite color of Japanese consumers for tulips?”)。通訳の翻訳の仕方が悪かったのか、わたしの説明がまずかったのか、「この中で、もっとも多いチューリップのカラーは何か?」とわたしに問われた、と聴衆は受け取ったようだった。会場からは、すぐに声が返ってきた。「白!」「赤!」 
 たしかに、スライド上にある色は、ホワイトが多い。赤も少なくない。日本人の育種したもの、白が多いのだ。もしかすると、トルコ人は、白のチューリップが好きなのかもしれない。
 わたしから、すぐには回答を与えなかった。聴衆たちに、逆に問いかけてみた。”Which color of tulip do you like? Please raise your hand, if I would call any one of the color, for example, yellow! “(「チューリップの色で好きなのはなに色ですか?
 わたしが、たとえば、「黄色」と言ったら、手を挙げてください!」) 順番に色を読み上げていった。白、赤、黄、紫、ピンク、オレンジ。ここで止めた。トルコ人にもっとも人気があったのは、「赤」(30%)と「白」(30%)だった。黄と紫、ピンクは人気薄だった。
 さて、答えは。”Pink is the most popular color of tulips for Japanese people: about 36% share of total sales of tulip bulbs sold in Japan.”(「日本人にもっとも人気があるチューリップの色はピンクです。日本で販売されている球根のおよそ36%を占めています」)
 そして、2008年の実際の市場データを示した。通訳を介して、色の構成比のデータを、順番に読みあげていったた。二番目が黄色で約16%。赤色が約15%である。なんと、白色は3%強だった。つまり、日本で育種された独自な品種で、いちばん多いのはピンクと赤、つづいて白である。
 しかし、市場で販売されている球根の中で、白はごくわずかな割合を占めているにすぎない。だからこそ、独自の品種で強いのだが、量販されているチューリップの色(ピンクや赤や黄色)は、完全にオランダの輸入球根に負けているのである。この事実をトルコの生産者にも示したかったのである。

 シンポジウムは、予定より15分遅れて終わった。わたしの基準からすると、超過限界のぎりぎりではあるが、たぶんトルコの人たちは、あまり気にしていない可能性があった。昨日のトルコ時間を考えるとである。
 ツナ郡長からは、記念の盾とお皿をいただいた。わたしとオグズン女史には、チューリップの花束が渡されて、最後は記念撮影となった。この時点で、座っている聴衆はすでに300人に減っていたが、それも気にならないくらいの歓待ぶりだった。皆さん、喜ばれているようだった。