今朝、ヤフーニュースで「<国立大学法人化>経営側は評価 研究者は否定的」(毎日新聞 [3/14 02:36])という記事を見かけた。2004年の国立大学法人化について、その成果を各大学の学長と教員(理系)にアンケートした結果である。
記事によると、「学長の3分の2が肯定的に評価する一方、現場を預かる学部長の半数は研究面で否定的な反応を示した」とある。新谷・筑波大准教授らの調査でも、「現場教員の6割以上が研究や大学運営に悪影響があった」と報告されていた。研究費が約半分に減額されている実情も明かにされている。
他方で、ノーベル賞級の研究者(約30人)には、十億円単位の個人研究費が配分されている(先週の日本経済新聞)。減額された研究者は、平均交付額が70万円台である。140万円が半分になったのである。このデータをどのように読むか。自民党政権末期の小泉内閣時代に、競争促進政策に転じた文部科学行政は、「薄く広く」の研究費配分を、「メリハリ」をつけた成果主義方式の割り当てに変えた。それ自体は、正しい考えであると思う。わたしの周囲を見渡しても、教授に昇進したら、そのあとは、論文一本書かない、何も教育しないひと(文系で約7割、理系では約6割)が大多数である。理由は、終身雇用が保証されているからである。研究と教育の成果が昇級や昇進に連動していないので、一所懸命に働く動機は、うちなる良心と社会的な使命感だけである。
驚くべきことが、教育現場では起こっている。わが法政大学では、数年前にFD(授業評価制度)を導入した。授業の評価を学生にアンケートして、教育業の質を高めようとする試みである。現場教員の多数意見は、その結果を学生に公表したり、教員の給与査定や昇進に反映させるべきではない、というものだった。
わたしも、学生から勝手な評価をされて頭に来ることもあるが、ほとんどの批判的なコメントは、身に覚えがあるものである。ときどき、「テロリスト」(1ばかり付ける不満分子)と呼ばれる悪意のある学生もいるが、そうした学生は、無視をすればよい(体操の採点方式で、極端なスコアは採点から外す)。
わが国の高等教育現場では、ぬるま湯体質での研究が許されてきたわけである。むかしは、エリート集団が、大学教育を担っていた。大学が大衆化したいまは、教師も学生もかつての高等学校と同じ水準である。だから、サービスの品質管理が必要である。
せめて研究費の配分で差を付けなければ、日本の教育と研究は活性化できない。ますます、グローバルな競争力が低下する。研究室に蔓延する甘えの実態は、目に余るものがある。アンケート調査をすれば、総額が抑制されているわけだから、恩恵に浴している研究者は、数のうえでは断然少なくなる。だから、現場に問い掛けたら、あたかも不満が出ているように回答の比率が出るのは、ごく当たり前である。平均の誤謬。
このごろ、わたしは民主党政権に、かなり批判的になっている。同党の労働組合的な体質が、自民党時代の護送船団方式となんら変わらないと思うからである。教育行政について、民主党政権が危険だと思うのは、組合は雇用を優先するあまり、顧客である学生や社会のニーズを後回しにする傾向があることである。顧客や社会があっての雇用維持である。世間のために役に立たないサービスや、持続性のないシステムに未来はない。