第2章「マーケティング発達史」ドラフト(2008年5月5日)

「マーケティング入門」の第2章ドラフトを一時的に公開する。第2章は、「マーケティングの発達史」である。周囲にたずねてみると、わたしはマーケティング研究者の間でふたつの側面をもっていると見られているようである。サイエンスの人、調査やさん(現場に強い)。今回、敢えて歴史に取り組んだのは、実は25年間、マーケティング理論と歴史についても、ひそかに勉強していたことを示したかったのである。


第2章「マーケティングの発達史」(V2.0 2008.5.5)

 本章では、マーケティングの概念が誕生した時代背景を説明しながら、マーケティングが現在のような形に発展してきた歴史を概観する。その目的は、マーケティングの本質を読者に理解してもらうためである。第1節では、マーケティングの概念がどのような特質をもっているのかについて解説する。マーケティングが誕生するまでの前史を整理しながら、マーケティングの社会的な役割について理論的に考察を進める。第2節では、19世紀末に米国で誕生したマーケティングが、米国の大手メーカーとチェーン小売業を中心に、どのように発展を遂げたのかを見てみる。米国におけるマーケティングの発展に関する時代区分については、ふたりのマーケティング研究史家(バーテルズ、テドロー)の古典的な業績に依拠している。第3節では、第二次世界大戦後、米国から日本にマーケティングが移転され、実務的な知識体系としてどのように根づいたのかを見てみる。最後に、日本のマーケティングの特徴を整理する。

1.マーケティングの概念:誕生の前史

(1)マーケティング志向
マーケティングは、19世紀末の米国で生まれた実務的な学問体系である(Tedlow 1990)。 第二次世界大戦後、米国が世界経済を支配するようになるにつれて、米国企業、とくに米国を本拠とする多国籍企業(MNC’s)の強さの秘訣が「戦略的マーケティングstrategic marketing)」や「マーケティング志向(marketing orientation)」に求められるようになった。大きな企業組織を動かすとともに、高度に多角化した事業を運営するための基本的な経営手法として、世界中の企業組織や経営者たちにマーケティングの考え方が受け入れられるようになったからである。
戦略的な思考の道具としてのマーケティング手法は、単に経営幹部層に採用されただけではない。ミドルマネジャーにとっても、マーケティングの考え方は、実務的な知識体系として必要不可欠なマネジメント・ツールになっていった。例えば、市場分析や製品開発の進め方、価格付けやプロモーション活動に関する実務的な知識、さらには顧客サービスや競争対応などに関するマーケティングの基本知識は、規模の大小を問わず、どのような組織のなかで働く人々にとっても、いまや日常業務の基本事項である。
しかし、マーケティングの考え方(marketing thoughts)やマーケティングという現象(marketing phenomenon)は、19世紀の米国で誕生する以前にも、古代エジプトやローマの時代から、大英帝国やオランダの東インド会社が世界の貿易を席巻していた大航海時代にかけて、商業の発達史の中に厳然と存在していた。米国の大企業で実行されているほどに複雑で洗練された形式ではないが、マーケティング的な現象とそれに関連するマーケティング手法は、原初的で単純素朴な形で人間の経済行為の中に見ることができる。ここでは、マーケティング概念と近代的なマーケティング手法が誕生するまでの前史を見てみることにする。

(2)マーケティング概念とその起源
<企業の対市場活動>
 マーケティングは、狭く定義すると、「企業の対市場活動」である。「企業」には、株式会社のような営利目的の企業組織だけでなく、病院や学校、政府・地方自治体のような「非営利組織」を含んでもかまわない。この場合は、「非営利組織のマーケティング(marketing for nonprofit organization)」と呼ばれる(Kotler and Andreasen 2007)。
「企業」を「個人」で置き換えることもできる。次節では、交換行為に関連して恋愛と結婚の例を取り上げるが、人(個人)や政党(団体)をマーケティングすることも可能である。この場合のマーケティングは、「自分(公約)を売り込む」という意味で使われている。こうした枠組みでのマーケティングは、広義のマーケティング活動と呼ばれる。その場合においても、企業が自社製品を販売するときとほぼ類似のマーケティングの枠組みを利用することができる。
なお、「市場」の意味するところは、「消費者の行動」や「競争企業の反応」などを含んでいる。いずれにしても、マーケティングという行為が発生するのは、「売り手(seller)」と「買い手(buyer)」が存在しているからである。
マーケティングが行為として完遂できるのは、売り手と買い手の間で「交換」(exchange)が起こるときである。交渉が成立する条件(「取引」の成立要件)は、財やサービスが貨幣を媒介にして交換がなされるときに、お互いの満足(効用)がより高まるときである。したがって、マーケティングのもう一つの定義は、「交換を促進するための計画的な活動プロセス」ということになる。

<社会的交換の諸形態>
歴史的に見ると、財とサービスは、必ずしも「等価交換」されてきたわけではない。売り手は、余剰な生産物を抱えている「作り手」(職人、職工、製造業者)か、再販売を目的に商品を仕入れる「商人」(卸売業者、小売業者、ブローカー)であることがふつうである。しかし、財やサービスを入手するための方法はさまざまである。また、商品やサービスを入手する主体である「買い手」は、金銭を支払わないで財やサービスを手に入れる場合もある。例えば、経済的な等価交換以外に、つぎのような社会的交換の諸形態があることが知られている。

① 贈与・貢物による交換
例えば、日本赤十字の「赤い羽根募金」や「献血ボランティア活動」、ユニセフの「募金活動」、私立学校が卒業生に向けて実施する「創立100周年記念事業」の基金への寄付活動などがこれにあたる。ある意味では、「納税」もこのカテゴリーに入るのかもしれない。この場合、売り手は、自らが支払う金銭に対して買い手の「善意」や「約束」を購入していることになる。なお、日本人がはじめての訪問先に「おみやげ」を持参する習慣や、欧米で一般的に行われている「クリスマス」のプレゼント行事においても、「贈与」に対して「従順」や「好意」などが交換されていると解釈することができる(南、木村、ホルブロック、ブラウンなど)。

② 略奪・強制による交換
人類の歴史は、血塗られた戦争の歴史でもある。平和な時代が訪れる以前の「不等価交換」でもっとも悲惨な事例は、暴力や強制を伴う「略奪行為」であろう。武力によって一方的に相手の所有権を奪う行為は、潜在的な「脅威」や失われた「自由」が天秤にかけられていると見ることができる。マフィアやヤクザの存在も、「みかじめ料」と「安全」という交換の枠組みの中でうまく説明ができる。実際に、マーケティング概念を発明した当事者の米国が、奴隷市場を発達させた張本人であった。また、戦争の後始末として、捕虜に対する強制労働や戦勝国に対しては戦争賠償金などが支払われている。人身売買や売春行為、臓器売買などの闇市場(ブラック・マーケット)はいまでも存在している。  なお、社会的な問題を解決するために、麻薬撲滅キャンペーンなどのマーケティング・コミュニケーション活動が有効であると言われている。マーケティングも、使い方によって「光と影」の両方の性格を同時に持っていることがわかる。

③ 経済的な交換
対価(貨幣やモノ、労働)を支払って、財やサービスを交換するのが「経済的な交換」である。「取引(transaction)」とも呼ばれる。医師と患者の関係の場合のように、売り手と買い手の間に情報格差が存在することはあるが、基本的には売買の交渉相手同士が納得済みの「等価交換」という形式をとる。経済的な取引は、何らかの形で売買契約をともなう。ただし、取引ルールが明文化されている場合(近代的)と暗黙の了解で取引がなされる場合(前近代的)とがある。どちらになるのかは、取引関係性が長期継続的な取引なのか、それとも短期のスポット取引を前提としているのかにも関わっている(ウエブスターの分類)。なお、経済的な取引には、「組織取引(organizational transaction)」と「市場取引(market transaction)」のふたつの形態を区別できる(ウイリアムソン、「取引コスト・パラダイム」)。例えば、明示的な契約ルールに基づく組織取引の例としては、結婚、就社、商品サービスの長期相対取引などを上げることできる。

マーケティングは、①~③のすべてを扱うことができるが、主として、③の取引形態を前提にして発展した学問である。

 <市場の進化と商人の登場>
 これまでは明示的に説明してこなかったが、日本語の「市場」には、英語表現では”Market” と “Marketplace”が対応している。音読みをすると、前者は「しじょう」であり、後者は「いちば」と発音する。例えば、福岡魚市場や築地青果市場、かつての横浜生絲取引所(2000年廃業)など、具体的に商品を取引する場所が物理的に存在している市場が“Marketplace”である。それに対して、外国為替市場や東京証券取引所(1995年?までは建物が存在)、「ヤフーオークション」などのネットオークションは、抽象的な市場(”Market”)である。
なお、ひとつの商品カテゴリーに関して、具体的な市場と抽象的な市場が複数並存していることがある。例えば、中古車市場には、実物の中古車を競売する「現車市場」(常設会場と特設会場)、掲載された中古車を個人間で売買する「中古車雑誌市場」、衛星を通じて取引する「衛星中古車市場」(オークネット)、インターネットでヴァーチャルに取引する「ネット中古車取引」がある。
原始時代から人類の経済行為の進化プロセスを見てみると、取引の原型は「2者交換」であったことがわかる。それ以前は、われわれの社会は、「自給自足」か「収穫物(獲物)の分配」によって生存が成り立っていた。Bagozzi(1986)の枠組み参考にして、市場の発生から初期マーケターである「商人」(merchant)が生まれるまでのプロセスを3段階で説明してみる。 第4段階目は、筆者が付け加えたものである。

① 2者交換
自給自足(収穫物の分配)の状態から脱して生産能力(技能)が向上すると、余剰生産物を交換するために取引相手を探察する活動がはじまる。初期の交易(trade)は、社会的分業から生まれた「2者交換」(two-person exchanges)という形態をとる。技能とニーズが補完関係にあるところから、余剰生産物の交換は始まる。猟師の毛皮と職人の槍が交換され、農民の小麦と陶工の壷が直接的に交換される(図2-1a)。ちなみに、交易する場所と日時を定めて、余剰物を売りたい人々が互いに集まりやすくしたのが「市」(いち)の始まりである。

② 取引仲介業者
多種多様な余剰生産物が2者間で交換されはじめると、取引を仲介する専門業者が登場する。売り手にとっても買い手にとっても、一回の取引のために場所を移動してさまざまな人と会わなければならないことは効率がよくないからである。「取引仲介業者(trader)」は、例えば、ひとつの商品作物(小麦)を用いて、他の多くの商品(肉、鋤、壷、労働など)との交換を効率よく仲介することに秀でた人間である(図2-1b)。

③ 商人の登場
経験を積み重ねた取引仲介業者は、取引の効率を高めたり、需給の変動を予測したりする知識を蓄えていく。売り手も買い手も、専門特化した取引仲介業者に売買を任せることで、時間と労力の節約になることを学ぶようになる。時間をかけて世代を超えて、しだいに交易に関する高度なスキルを獲得した取引仲介業者は、「商人」(merchant)に進化を遂げていく(図2-1c))。
 
なお、これに続く第4段階の「マス・マーケティング」(mass marketing)を生み出した20世紀初等の米国企業(主として製造業)は、上述の模式的な「商取引進化プロセス」とは別の系譜から生まれたと考えてよいだろう。米国のマス・マーケティングの誕生は、ある歴史的な条件の産物である。その前に、初期マーケターである商人たちが果たしてきた社会的な役割、すなわち、「流通の架橋機能」を見ることで、マーケティングの本質を考えてみることにする。

 この付近に  図表2-1 市場の進化過程 を挿入
 Bagozzi (1986)p. 15

(3)マーケティングの本質
<流通の架橋機能:時間と場所を超えて>
初期の商人たちは、今風に表現するならば、ベンチャー経営者であった。彼らは、売り手が保有する余剰生産物と買い手の未充足ニーズを架橋する役割を果たしていた。江戸中期の伝説的な商人、紀伊国屋文左衛門のみかん舟などがその代表例であろう。冬の荒海に自船と船員が飲み込まれるかもしれないリスクを冒して、紀州で大量に取れたみかん(余剰生産物)を江戸の町(未充足のニーズ)に運んだ文左衛門の冒険的な行為は、流通の「架橋機能(bridging functions)」の典型例である。
通常、流通が果たす架橋機能は3つの形態をとることが知られている。①時間的な隔たりを架橋する機能、②場所的な分断を架橋する機能、③形態的な隔たりを橋渡しする機能である。それぞれ、時間、場所、形態の隔たり(gap)を埋めることによって、付加価値(効用)を生み出している。農作物の例を用いて、流通の架橋機能を説明してみよう。

①時間的な効用(time utility)
二期作・二毛作の場合もあるが、基本的にお米は春に苗を植えつけて秋に作物を収穫する。しかし、お米そのものの消費は年間を通してほぼ一定である。だから、消費までの時間を埋めあわせるために、収穫物を保管しておかなければならない。籾殻がついたままの保管、玄米での保管、精米後の白米の状態での保管の形など、保管方法は多様である。また、保管できない場合は。お餅やお煎餅の形で保存食として事前に加工しておくこともある。素材のままであれ加工品であれ、生産と消費の間の時間的なギャップを埋め合わせるために、製品は在庫される。流通の「在庫保管機能」が、時間的な効用を生み出していることがわかる。

②場所的な効用(place utility)
20年ほど前まで、チューリップの球根は、特別に珍しい品種をのぞいては、ほぼ90%が国内産(富山県と新潟県)であった。現在、チューリップの球根の約80%はオランダ産に代わっている。国産のものと比較して、オランダからの輸入球根の価格がほぼ半値だからである(25円/球、50円/球)。  生産費用に輸送費を加えても、国産品は価格的にオランダに太刀打ちできないので、たとえ遠くとも海を渡って球根が輸入される。価格差に起因する場所的なニーズのギャップを「輸送機能」が埋め合わせている。場所の効用が、モノの物理的な移動によって生み出された例である。

③形態的な効用(form utility)
 果物などを除くと、ほとんどの農産物はそのままの形で消費されることはない。流通段階のどこかで、素材は加工されることが多い。収穫されたときの形状そのままでは、消費者の最終的なニーズを満たすことができないからである。例えば、お米に関しては、わたしたちは4通りの食の形態を持っている。単価が低い順番に並べると、(A)家庭でお米を炊いて食べる、(B)パックされたご飯(レトルト、真空包装)をスーパーなどで購入する、(C)コンビニや惣菜店でお弁当として買う、(D)レストランや食堂で食事を取る。それぞれ、流通段階での素材の加工度がちがっている。消費者のニーズに合わせて、提供されるサービスに見合って、お米(ご飯)の形状が変わることがわかる。「流通加工」の段階で、「形態効用」という付加価値が加わっているのである。

<マーケティング行為のプロセスモデル:商取引が成立するまで>
前項では、流通の基本的機能が、3種類のギャップを埋め合わせる行為であることが示された。別の観点から、これは、売り手の商品/サービスと買い手のニーズが、時間的、場所的、形態的に分断されている状態を解消する活動であるとも解釈できる。そうしたギャップを取り除き、最終的に取引を成立させるまでの一連の活動を、「マーケティング行為の遂行プロセス」としてモデル化してみる。比喩として、恋愛と結婚の例を用いる。この場合は、売り手が買い手であり、同時に買い手は売り手でもある。

①「マッチング機能」(出会いの場を創る)
「恋愛」が結婚相手を見つけるための準備プロセスであるとしよう。男性ならば理想の女性を、女性ならば自らの希望に叶った男性を見つけ出すことが、マーケティング活動のスタートである。まずは、潜在的な候補者と出会える場所と結婚相手を探し出す方法を考えなければならない。商取引の場合、出会いの場は「市場」であった。恋愛の場合にも、市場に相当するものが存在している。日本的な伝統では、「お見合い」や「友達・知人からの紹介」が、恋愛・結婚モデルにおける市場に該当している。ZWEIやOMMGといった結婚紹介サービスを利用することもできる。あるいは、ネット上で関連サイトに自分の名前を登録してもよいだろう。積極的な向きには、街頭で未来のパートナーをナンパするという方法もある。

②「情報探索機能」(買い手と売り手のサーチ)
結婚相手となる候補者が決まったら、お互いに相手の特性(品質)を確認する作業がはじまる。デートで一緒に食事をしたり、映画を見たりドライブをしたり、東京ディズニーランドでミッキーと遊ぶなどの「コミュニケーション活動」は、相手の特性を知るための良い機会を提供している。複数の選択肢(相手)を比較することが許される場合もあるだろう。複数の代替案を比較する行為においては、市場での競争活動と同様なシナリオでゲームは進行する。評価のプロセスにおいては、積極的に情報探索を行うプレイヤーと、はじめから選択肢を絞り込んでしまうタイプに、サーチャーの探索パターンも分かれそうではある。

③「商取引促進機能」(買い手への説明と説得)
相手がひとりに絞り込まれたとする。最終的なマーケティング活動は、「プロポーズ」という形でのプロモーション活動になる。「提案」(propose)とは、自分という商品の内容を相手にうまく説明し、結果として結婚相手として受け入れてもらうことである。商取引では、「クロージング(closing)」の段階に至ったことになる。最終的に契約を獲得するために、商品の内容を説明するだけでは十分ではない。相手の行動や動機を勘案しながら、自分と結婚することが価値あるものであることを説得する必要がある。成約に至るまでには、説得的な交渉が伴わなければならない。恋愛から結婚にいたるプロセスは、その意味では商取引となんら異なるところがない。

④「関係性強化機能」(法的な制度と関係性の継続)
 恋愛は結婚で終着点を迎えるが、マーケティング活動を喩えにした取引プロセスはこれで完結するわけではない。購買された商品が耐久財であれば、家庭や職場で繰り返し使用され続ける。品質管理が悪いと、製品の使用中に不具合が見つかるかもしれない。あるいは、シャンプーやインスタント食品のような消耗品では、一度購入されたブランドが再購買してもらえるかどうかが問題になる。同様に、結婚は解約がむずかしい制度に守られているとはいえ、関係性を強化する努力をしなければ離婚に結果してしまう。したがって、「関係性マーケティング」の枠組みが結婚においても有効である。夫婦間で相互理解を深めて、継続可能性(関係性の強化)を高める努力をする必要がある。その点は、マーケティング活動と同じである。

      図2-2 マーケティング行為のプロセスモデル
        (恋愛とマーケティングの機能比較図 作成)

<ブランディングによる差別化>
 結婚の例では、マーケティングの基本機能を事柄(恋愛)の時間進行にしたがって整理した。すなわち、マーケティングの本質機能を、「場の創出」「情報探索」「説明説得」「関係性強化」の4つに分類してみたわけである。最後の関係性強化機能は、継続的に顧客を獲得して維持する「顧客資産の管理」の枠組み(ブラットバーグ他 2001)に通じるものがある。
マーケティングをうまく機能させるための前提になって考え方は、「見込み客」(候補者)に対して「自分という商品」を他の「競争相手」より優れたものに見せることである。したがって、マーケティングの本質的な機能をもうひとつあげるとすれば、それは競争対応ための「差別化機能」ということになる。とくに、商品の独自性を強調するためのイメージ創造活動については、「ブランド化」あるいは「ブランディング」(branding)と呼ばれている。ブランドの本質機能は、製造業者や流通業者の出所を明示し、品質を保証し、ブランドの商標やロゴマークを使用しながら、巧みに宣伝広告を実施することである。
「ブランド・マネジメント」については、第18章で取り上げることになる。

2.米国のマーケティング発達史

(1)マーケティングの誕生
本節では、米国におけるマーケティング概念の変化を、歴史的な視点から回顧してみることにする。
「マーケティング(marketing)」という言葉は、1900年代の初頭までは存在していなかった。いま米国を代表するマーケティング優良企業である「プロクター・アンド・ギャンブル社(Prccter & Gamble Company)」の創業は、歴史を遥かに遡ること170年前の1837年である。しかし、P&Gの社史Rising Tide: Lessons from 165 Years of Brand Building at Procter & Gamble (2004)に記述されているように、真の意味でP&Gがマーケティング企業となったのは1890年以降のことである。この年に、P&Gは家族経営を脱して、ニュージャージー州で公開会社となった。
その前年の1879年に、米国を代表するトイレタリーブランド、アイボリー石鹸(Ivory soap)が発売されている。その後の約20年間は、主としてマスメディアへの大量の広告投下によって、アイボリーがジェネリックな石鹸(commodity)からブランド(brand)に変わっていく転換期である。コカ・コーラ、フォード、A&Pなど、米国を代表するクラシック・ブランドが確立されるのが、20世紀に入ってから世界大恐慌までの約30年間である。マーケティングの概念は、クラシック・ブランドが米国の消費者市場(consumer market)に送り届けられたのとほぼ同時に、Market + Ing=「市場を作る」、あるいは、「マーケティングとは市場を創造すること」(ドラッカー)という意味で、20世紀前半の米国経済社会で市民権を獲得したことになる。
それでは、1900年代初頭の米国社会では、マーケティング概念が登場する以前に、それに類似した言葉や概念は使用されていたのだろうか? バーテルズ(1976)によると、マーケティング概念が発見される以前には、取引(trade)、商業(commerce)、販売(sales)、流通(distribution)という言葉が、マーケティング周辺の活動を表すために存在していたことになる。  ただし、広告や販売を実現する以前の企業活動として、それらの部分活動を統合する必要性が当時の米国企業に必要性が感じられていた。企業の対市場活動を総称する必要性から生まれたのが、Marketing of Productsであり、Marketing Methodであった。
繰り返しになるが、「製品マーケティング」や「マーケティングの方法」という概念は、1900年代初期の米国企業の現実的なニーズから生まれたものであった。そうした現実を説明するために、マーケティング史家であるテドロー(1991)は、米国マーケティング誕生と発展の歴史を3つの時代に区分している(その後、第4番目を付け加えている)。

(2)マス・マーケティング史
テドロー(1990)は、米国の社会でマーケティングが誕生し、発展していく段階を3つに時代区分している。『マス・マーケティング史』(邦訳1993年)は、19世紀末から現在までの米国の消費社会を、マーケティングを実行してきた企業の立場から、見事にかつ簡易に叙述した歴史的な分析の書である。米国におけるマーケティングの発展を理解してもらうために、以下ではそのエッセンスを要約して紹介する。

図表2-  アメリカにおけるマーケティングの3段階
段階 特徴      
Ⅰ 分断の時代 高いマージン
少量販売
高い輸送費のために、市場の規模が小さい
Ⅱ 統一の時代 大量販売
低マージン
全国がマス・マーケットへ統合
Ⅲ 細分化の時代 大量販売
顧客価値に基づく価格設定
  人口統計的・心理的細分化
出典:テドロー(1993)、翻訳6頁を修正

<分断の時代(fragmentation)>
第一段階は、マーケティングが誕生する以前の黎明期である。「分断の時代」(fragmentation)」と彼は呼んでいる。命名の由来は、全国市場が誕生するまでの約200年間、生産者は地域ごとに分断されていたからである。ある地方で作られた商品を他の市場に運ぶ輸送手段はなく、商品を広告するために有効なメディアも存在していなかった。分断された地域市場の特徴は、高マージンと少量生産であった。もちろん高い輸送費を支払って、投機的な行為への報酬として高いマージンを獲得する商人がこの時代には存在していたが、それは例外な存在であった。商品を全国販売できるためには、鉄道と船による大量輸送手段の発達と新聞やラジオなどのマスメディアの発明が必要であった。

<統一の時代(Unification)>
地域ごとに分断されていた市場は、新たに生み出された通信・輸送技術の発達によって全国統一市場へと結合されることになる。「統一の時代」を実現させたのは、大量輸送と大量広告の技術であった。19世紀末になると鉄道網と通信ネットワークが全米に張り巡らされ、これが低コストで大量生産された商品を大量販売することを可能にした。
全国市場のリーダーは、製品分野ごとに一社ないしは数社であった。企業家精神に溢れた覇者たちは、宣伝広告やパブリシティ、メーカーによる卸売業務の統合、小売業者との提携、販売計画の策定と実行、綿密な市場情報分析を通して、消費財市場に大きな影響力を及ぼすことになった。第二段階の「マス・マーケティング全盛期」を担ったのは、コカ・コーラ、フォード、P&G、シンガーミシン、A&Pなど、全国的な知名度を得た有名ブランド企業であった。この時代に活躍した企業やブランドは、100年の時代を超えて今でもほとんどが生き残っている。

<細分化の時代(Segmentation)>
第二段階で成功を収めた先駆者たちの製品は、単一製品と普遍的なマス・マーケティングを特徴としていた。どちらかといえば、それは生産者優位の発想である。大量販売市場(マスマーケット)でスケールメリットを追求しつつ、低価格販売を志向していた。
ところが、先駆者たちは、後発だが新しい切り口から市場に参入してきた挑戦者たちのチャレンジを受けることになる。コークに対してペプシ、フォードに対してはゼネラル・モーターズ、食品小売業のA&Pに対しては総合小売業のシアーズである。挑戦者たちの武器は、市場を細分化して複数の製品ラインを準備することであった。市場はひとつではなく、いくつかのセグメントから構成されていると考え、きめ細やかなマーケティングを展開してきた。あるいは、製品そのものの物理的な品質だけを高めるのではなく、使用シーンや心理的なポジショニングに注目することに注力してきた。
1920年代に自動車業界で起こった事例が典型的である。1908年にフォードが導入したT型は、ヘンリー・フォードにとっては唯一普遍の製品「ユニバーサル・カー」だった。顧客の好みが異なるという発想はそもそもなかったし、市場を細分化する必要性など感じることがなかった。それに対して、当時GMを率いていたアルフレッド・スローンは、「どんな財布にもどんな目的にもかなった車」というキャッチコピーの下で、ピラミッド型の価格体系を導入した。キャデラックとビュイックのように、それぞれ多様な顧客の要求に、訴求するように複数のモデルを準備した。自動車業界だけでなく、たいていの製品分野で後発組のセグメンテーション手法とマルチブランド戦略が勝利を収めた。
なお、市場を細部化するという流れは、1980年代以降は、「個客対応(ワンツーワン)マーケティング」という形で、「マイクロ・マーケティングの時代(Micromarketing)」につながっている。

(3)マーケティングの理論発達史
 テドロー(1990)のアプローチは、米国企業がマーケティングをどのように実務的に発展させたのかを歴史的に時代区分したものである。もうひとつの接近法は、米国人のマーケティング研究者たちが、マーケティングの理論的な枠組みやさまざまなマーケティング固有の概念を、現実の中からどのように発見し、概念化してきたのかについて、歴史的に整理することである。約30年前にこのテーマに取り組んだのが、ロバート・バーテルズ(「マーケティング思想の発展史」)であった(邦訳1979年)。
 その内容を詳しく紹介することはできないので、マーケティング概念の成立に関連のあるものを、時代区分に合わせて簡単に説明することにする。バーテルズの枠組みでは、マーケティング思想の歴史が、10年刻みで8つに区分されている。1940年までの4 0年間(第二次世界大戦まで)を「前期」、それ以降を「後期」と呼んでいる(図表2- )。

図表2-  マーケティング思想と技術の発展段階
前期  1900~1910 「発見の時代」
1910~1920 「概念化の時代」
    1920~1930 「統合の時代」
     1930~1940 「発展の時代」
後期 1940~1950 「再評価の時代」
      1950~1960 「再概念化の時代」
      1960~1970 「分化の時代」
      1970~1980 「社会化の時代」
補足     1980~1990 「国際化の時代」
      1990~2000 「情報化の時代」
      2000~ 「環境の時代」
出典:バーテルズ(1979)、邦訳46-47頁(一部用語を修正)

<前期>
①「発見の時代」(1900~1910)
 マーケティングという概念が誕生した時代。初期のマーケティング教育者(研究者)たちは、流通業に関する諸現実から多くを学んだとされる。マーケティングの成長を育んだ最初の場所が、ミネソタ州やイリノイ州など、農産物流通の中心地であったこととそれは無縁ではない。なお、初期のマーケティング理論の枠組みは、基本的には古典派経済学からの借用であった。

②「概念化の時代」(1910~1920)
 マーケティングに関する諸概念が考案され、分類され、マーケティング用語が定義された。もっとも重要な概念のひとつは、マーケティングへの三つの接近法である。すなわち、「商品別アプローチ」(例えば、自動車、ミシン、石鹸、小麦のマーケティング)、「機能別アプローチ」(例えば、広告活動、販売促進活動、価格付け、物的流通活動など)「機関別(制度別)アプローチ」(メーカー、小売業、卸売業、サービス業、百貨店のマーケティングなど)である。

③「統合の時代」(1920~1930)
 マーケティングの諸原理が統合的な枠組みとして整理された時代。マーケティングが実践的な思想として体系化された。例えば、コープランド(M.T. Copeland)有名な「商品の3類型」が発表されたのがこの時期である。商品学ではもっと著名な分類である「最寄品」(convenience goods)、「買回品」(shopping goods)、「専門品」(specialty goods)の3つのタイプ分けは、いまでも引用されることが多い。

④「発展の時代」(1930~1940)
 マーケティングの諸分野がそれぞれに大いに発展を遂げた時代である。大恐慌の後から第二次世界大戦に至る10年間は、世界貿易の拡大と経済成長にも恵まれ、米国のマーケティングにとっては黄金時代であった。

<後期>
⑤「再評価の時代」(1940~1950)
 第二次世界大戦後、従来からあるマーケティングの枠組みと諸概念が再考された。商品的な接近法が後退し、マーケティング諸活動の計画・調査・管理プロセスが強調されるようになった。同時の再編集されたテキストを見ると、マーケティングの起点としての「消費者志向」(消費者視点)と科学的手法として「経済分析」(数値管理)が強調された。
      
⑥「再概念化の時代」(1950~1960)
 既存のマーケティングの枠組みが、「企業家的な意思決定」(managerial marketing)の視点と「数量的な分析法」(quantitative methods)を導入することで補強された。現在、ポピュラーとなったいくつかの概念が、社会学、心理学、統計学などの近接分野から借用され導入された。たとえば、「製品ライフサイクル理論」「ブランド選択理論」などである。マーケティング・ミックスの「4P概念」(マッカーシー)も、この時代の代表的な産物である。

⑦「分化の時代」(1960~1970)
 1960年までは、マーケティング思想が「求心力」を持っていた時代であった。経済学や経営学など、隣接する社会科学・自然科学の分野から、諸概念や手法やツールを有効に借用して学問の分野を豊かにしていた。「分化の時代」の10年は、マーケティング思想にとっては「遠心力」が働いた時代である。一方で統合的にマーケティングを考えることをやめたわけではないが、それと同時に、専門化した分野で、固有のマーケティング概念や枠組みが独自に発達した。例えば、意思決定論、数量分析、国際マーケティング、物的流通、消費者行動分析、システム分析などである。

⑧「社会化の時代」(1970~1980)
 社会的な諸問題が、マーケティングにとって重要となった時代。社会に対するマーケティングの影響が関心事となった。公共政策的な観点からの議論としては、広告における真実(虚偽広告)、比較広告の妥当性に関する議論、製造物責任(PL)問題、環境問題などが挙げられる。また、コトラーが主張したように、企業的なマーケティング概念を拡張して、非営利組織や公的な組織にマーケティングを適用することに注目が集められた。

<マーケティングの時代区分:その後>
バーテルズの時代分類は、1980年で終わっている。もしバーテルズがいまの時点で、『マーケティング思想史:補遺版』を書くとしたら、どのような時代区分をしただろうか(補足:図表2― )? 以下は、バーテルズに代わって筆者が補足したマーケティングの時代区分である。

⑨「国際化の時代」(1980~1990)
1980年代は、経済がグローバルな展開を見せた10年であった(「国際化の時代」)。資本も人材も組織も、国境と民族・文化を越えて自由に行き来する流れは、いまでも続いている。標準言語としての英語の採用と情報ネットワークの普及があるので、経営とマーケティングのグローバリゼーション(中国語で「全球化」)の流れを止めることはできないだろう。
⑩「情報化の時代」(1990~2000)
1995年を起点とするインターネットの普及は、マーケティングの仕組みを根本から変えることになった(小川 1999)。  いわゆる「インターネット情報革命」によって、商取引の仕組みとコミュニケーションのあり方が、以前にもまして消費者寄りに変わったことは明確である(「情報化の時代」)。同時に、データベース・マーケティングやCRM(顧客関係性マネジメント)など、マーケティング科学の威力が従来以上に発揮できる条件が整ってきている。

⑪「環境の時代」(2000~)
最後に、新しい世紀がはじまった2000年代は、「環境の時代」である。マーケティングが、消費者に対して安心と安全を確保する仕組みと、広い意味での環境問題への対応を求められている。マーケティング活動を通して、企業が社会的な責任を果たすことも2000年代の役割である。

米国で生まれたマーケティングは、誕生から約100年の進化のあとで、企業を運営する上でのエンジンとなっている。そして、標準的な経営手法として、マーケティングはグローバルに受け入れられている。ごく当然のように使用されているマーケティング概念や分析手法は、それでは、日本企業はどのように受け入れるようになったのだろうか?
次節(第3節)では、米国のマーケティングが日本に受け入れられ、普及していく発展の歴史を見てみることにする。また、日本のマーケティングが米国のマーケティングとどのように異なった特徴を有しているのかについても考えてみることにする。

3.日本のマーケティング

(1) 日本のマーケティング前史:第二次世界大戦前
 第二次世界大戦前の日本に、「マーケティング概念(marketing concept)」がまったく存在していなかったわけではない。ここで言うマーケティング概念とは、消費者のニーズをすばやく読み取り、それを商品・サービスとして結実させたのちに、統合的に市場を管理する経営思想のことである。そうであれば、江戸時代の商家経営(三越の前身にあたる「越後屋」や石田梅岩の思想)にその片鱗は見られる。また、大正・昭和期の森永製菓や資生堂はすでに、戦後わが国が米国から導入したさまざまなマーケティング手法を実際に実行していたことは事実が示すとおりである。
しかしながら、現代的なマーケティングという観点からは、戦前と戦後の状況を分かついくつかの断絶が存在している。学問的な分類にしたがえば、戦前のマーケティングは、「商業学」「商業論」「配給論」「商品学」などのラベルを持つ商業資本中心の体系である。どちらかというと、社会的流通の形態を企業の外から眺めるといったタイプの研究が主体だった。戦後の産業資本(製造業中心)のマーケティングとは、基本的にマーケティング主体が異なっている。統合的に市場を管理するという視点から、鳥羽(1982)にしたがって、戦前のマーケティングの特徴を素描してみることにする。
鳥羽欽一郎(1982)は、「たとえマーケティングという呼称では呼ばれていなかったにせよ、今日の販売管理、さらには在庫管理から物流、市場調査、宣伝・広告技術などが存在していたことはもちろんである(3頁)」とした上で、日本の在来マーケティングを、近代的なマーケティングの概念を用いて、3つの段階に分類している(時代区分については、筆者がラベルを付けた)。

①江戸時代: セールス・マネジメントの時代
江戸時代の商家の伝統は、優れた「販売管理(sales management)」の実務にあった。近代的なマーケティングにおいて、「販売」はマーケティングの最終段階にあたる。いかに販売を巧みに効率よく行うかという販売マネジャーの技術のことである。経験的な実務技術としては、戦前はもとよりすでに江戸時代から、日本においてもマーケティングは非常によく発達していた。百貨店に連なる小売販売技術として、江戸期においてすでに販売管理の水準はかなり高かったと言える。

②戦前: マーケティング・マネジメントの時代
①が直接販売の技術だとすると、「マーケティング・マネジメント(marketing management)」は、今日のマーケティング・マネジャーの実践的な技術体系のことを指す。実践的な知識という観点からであれば、物流や在庫管理、さらには宣伝・広告技術は、江戸時代から戦前の小売販売業者や問屋にいたるまで、日本においても充分に発達していたといえる。明治・大正期において、輸出マーケティングのために総合商社は存在していた。森永製菓、資生堂など、部分的には、戦前の製造業においてもマーケティング・マネジメントは実務的には実践されていたといえる。

③戦後:マネジリアル・マーケティングの時代
 戦後になってから、企業経営全体の立場からするマーケティングが米国から導入された。企業的マーケティング(managerial marketing)は、経営トップの市場戦略立案と競争的市場管理の技術として位置づけられる。戦前の日本には、製造業中心に統合的に市場管理するという視点は決して強くはなかった。戦後の高度成長と製造業の戦略課題に統合的な観点から応えるものとして、米国から学習した実学体系であった。

(2)米国マーケティングの移植(導入と模倣の時代:~1959年)
 第二次世界大戦後になってはじめて、体系的で近代なマーケティングの手法が日本にもたらされた。学習対象となったモデルは、米国のマーケティングであった。小原らの研究(1995)にしたがえば、戦前の日本のマーケティングは、ある特定の商品分野と社会階層に限定されていた。本格的なマーケティング企業の確立と大衆消費社会の出現がセットになって、マーケティングが戦後の日本社会で花開くことになった。

<生産性本部の米国視察団>
 日本の産業界が、米国からマーケティングを導入することになったきっかけは、1955年2月に発足した日本生産性本部が、同年9月に「第一次トップ・マネジメント視察団」を米国に派遣したことであった(横田 1985)。  視察団の団長は、東芝社長で日本生産性本部会長だった石坂泰三であった。石坂団長の米国ビッグビジネスに対する印象は、「アメリカ巨大企業の市場開拓と生産性向上を目撃し、わが国にマーケティングの必要性を痛感した」であった。これを機会に、米国マーケティングとデミング流の品質管理手法の日本への導入が加速されることになった。
 続いてごく短期間のうちに、第2次~第4次までのトップ・マネジメント視察団が生産性本部から米国に派遣された。とくに、1956年には、「マーケティング専門視察団」が派遣されている。同時に、米国のマーケティング専門家を日本に招いて、全国の主要都市で「マーケティングセミナー」が開催された。なお、市場調査や広告実務(1958年の「広告専門視察団」)など、マーケティング専門技術の移植については、実務家の米国視察や大学教授による教科書や専門書の翻訳を通して、多数わが国の産業界に紹介されることになった。マーケティングの導入期(1955~1959年)はごく短期間ではあったが、さまざまな人を介してのマーケティング技術の移転(小川・林 1998)が、マーケティングの模倣・発展期(1960~1979年)にとって導火線の役割を果たすことになった。
 産業界のマーケティング・ブームを受けて、1958年には産学協同で「日本マーケティング協会」が設立された。1960年に、日本ではじめて神戸大学で「マーケティング論」の講座が誕生した。その後は、全国の主要大学で、従来の販売管理論や配給論に代わってマーケティングの講座が続々と設置された。1966年には、「マーケティング・サイエンス学会」が発足している。日本の大学教育でも、マーケティングが科学としての市民権を得ることになった。

 <流通業者たちのマーケティング学習>
大手メーカーだけが米国のマーケティングを日本に導入する努力をしていたわけではない。産官学でスクラムを組んで米国発マーケティングを学習していた大手メーカーとは対照的に、流通業の経営者たちは、個人として民間ベースで米国流通業から実務知識を獲得しようと試みていた。その中心にいた理論家は、『流通革命論』の林周二(東京大学教授)であった。  他方、コンサルタントとして実務家に影響力が大きかったのは、当時は読売新聞の記者だった渥美俊一氏である。渥美氏はその後に独立して、「ペガサスクラブ」を主催することになる。現在にいたるまで、セミナーと米国流通業視察を通して、思想的にも人間的にも組織的にも、日本の名だたる流通業の経営者に大きな影響力を与えてきた。
ただし、高度成長にいたる戦後20年間は、流通業者にとっては基本的にモノ不足の時代であった。メーカーの系列支配に対抗する一大勢力として、ダイエー、イトーヨーカ堂、西友、ジャスコ(現イオン)などのチェーン小売業が登場するのは、そのつぎの10年を待たなければならない。現在、大手に成長している流通業(量販店、食品スーパー、ホームセンター)やサービス産業(外食産業、惣菜業など)の経営者が頻繁に米国詣をするようになるのは、チェーンストアが台頭してくる1970年代に入ってからのことである。
 
(3)輸出マーケティングと国際化(1970~1989年)
<適応的模倣からマーケティング革新へ>
 1960年代を通して、米国流マーケティングの実務的な模倣過程が完了することになる。この時代は、日本の国内経済が大きく成長した期間でもあった。オイルショックに見舞われる1973年までに、内需拡大と製品輸出によって日本は未曾有の高度経済成長を達成した。この時点で、所得平等度が高く中間所得層が厚い、世界に類を見ない大衆消費社会を日本は実現することになった。自動車や家電などの耐久消費財メーカーは、国内需要の開拓で得た製品開発やマーケティングの知識を活用し、米国や欧州に日本発の製品を輸出する努力をはじめた。
外資規制が緩和された1970年以降は、欧米の大手メーカーが日本に子会社を設立できるようになった。加工食品メーカーでは、ネスレ(スイス)やゼネラル・フーズ(米国)やケロッグ(米国)が、トイレタリーメーカーでは、ユニリーバ(英国&オランダ)やP&G(米国)、化粧品メーカーでは、ロレアル(フランス)やマックスファクター(米国)が、製品とマーケティング技術を携えて日本市場に乗り込んできた。迎え撃つ日本の加工食品メーカー(味の素、ハウス、雪印、森永)、化粧品メーカー(資生堂、カネボウ、コーセー)、トイレタリーメーカー(花王、ライオン、ユニチャーム、サンスター)の各社は、ようやく模倣の段階を終えたばかりであった。しかし、この時点で国内外企業と熾烈な競争を経験したことが、マーケティング力を高めることに大いに貢献している。
日本市場を舞台に、グローバルな競争力、とりわけ製品開発能力を高めることができたのは、外資メーカーも同じであった。日本発の国際通用性があるイノベーティブな製品の代表的な事例としては、P&Gの紙おむつ(パンパース)やコカ・コーラの缶コーヒー(ジョージア)などをあげることができる。また、製品ではないが、コンビニエンスストア(「セブン-イレブン」)は、イトーヨーカ堂グループが米国サウスランド社を逆買収して立て直したサービスシステムである。マーケティング革新が、一方向ではなく双方向で、場合によっては、スパイラルに移転し始めたのは日本の1980年代にその起点がある。

<日本企業のマーケティング国際化>
日本製品は、品質と価格のバランスで競争優位を持っていたので、海外市場でも大いに成功を収めることになった。その背後にある日本的経営の強みとマーケティングの仕組みに対して、海外の研究者も注目するようになった。例えば、コトラーら(1985)は、日本の輸出競争力の強さを、『日米新競争時代を読む』(原題:The New Competition)の中で注意深く分析している。日本のマーケティング力の分析を通して、その後に登場してくるアジアの新しいプレイヤーたち(韓国、台湾、中国、インドなど)の発展の姿をすでに予見している。
オイルショックを乗り越えて、さらに輸出競争力をつけた1980年代は、日本の大手メーカーにとっては黄金時代であった。海外市場を席巻した自動車・家電産業では、1985年のプラザ合意以後は、国際化の波に乗って製品輸出から現地生産に切り替えるようになった。円高・現地化という環境の激変にもかかわらず、日本企業の業績な好調は、バブルが崩壊する1990年まで続いた。

<日本的なマーケティングの特徴>
マーケティング手法を模倣する時代から、日本が独自のマーケティングを発展させる段階に至る過程で、日本的な経営手法の根幹にある「製品市場戦略(マーケティング戦略)」と「品質管理手法」が注目を浴びるようになった。欧米流のマーケティングとは異なる日本的なマーケティングの特徴を、日本人のマーケティング研究者が整理している。3人の見解を紹介することにする。
日本のマーケティングシステムを最初に英語圏に紹介した研究者は、ハーバード大学ビジネススクールの吉野洋太郎教授(当時)である。1971年に発表された著書『日本のマーケティング:適応と革新』(邦訳は1996年)は、戦後日本の大衆消費社会の出現をマーケティングシステムの適応という視点から分析したものである。  1970年までの段階で、吉野(1971)がまとめた日本のマーケティングの特徴は、以下のようなものである。
① 消費者要因:
戦前から高度な教育を受けて、なおかつ戦後は経済的に豊かになった中産階級(しか人もきわめて平等)が、消費生活文化の西欧化を喜んで受け入れてくれた。マーケティングを学んだばかりのメーカーにとっては、「消費が美徳であること」が社会的に容認さえていたことは、マーケティングを展開する上で非常に有利な条件になった。
② メーカーの適応要因:
日本の大手メーカーは、いち早く米国のマーケティングを組織的に学習した。大量消費市場を実現するために、広告投入で需要を刺激し、商品開発に磨きをかけた。また、販路開拓のために、積極的に流通系列化に努めた。
③ 流通部門の革新要因:
伝統的な小売業に代わって、新しいタイプのセルフサービス小売業が出現した。ただし、欧米とは異なり、1970年当時は車社会のインフラが整っていなかったので、百貨店や量販店を核店舗とした都市型ショッピングセンターがかなりな程度、郊外型の小売集積を代替していた。
④ 政府とその他の制度的要因:
政府は、初期段階では零細規模の小売業者を保護しようとした。その後に、流通近代化と合理化に方向を変えた。

図表2-  戦後日本のマーケティング
  メーカー視点のマーケティング 流通からみたマーケティング
1950年代 マーケティング概念導入の時代 物不足の時代
1960年代 模倣の時代 単品大量生産の時代
1970年代 輸出マーケティングの時代 チェーンストア台頭の時代
1980年代 国際化の時代 高付加価値/ブランド志向の時代
1990年代 ブランド・マーケティングの復権 流通国際化と価格破壊の時代
2000年代 環境マーケティングの時代 製造小売業優位の時代

(4)ブランド・マーケティングと価格破壊の時代(1990~1999年)
 池尾の研究(1999)は、吉野洋太郎(1971)の28年後に書かれたものである。竹内・野中(1985)、石井(1986)、片平(1994)、あるいは、ブランド研究と消費者行動論(Aaker 1991、Laaksonen 1994)の成果に依拠しながら、日本企業のマーケティング行動のエッセンスをつぎのように要約している。
「わが国の戦後の消費社会は、「未熟だが関心が高い消費者」を特徴としてスタートし、その特徴を前提に展開された日本型マーケティングは、流通系列化、企業名ブランド、同質的マーケティング、連続的新製品投入という性質を持つに至った」(池尾 1999、 249頁)。
未熟な消費者の存在と、日本型マーケティングを特徴付ける4つの要因はワンセットとして捉えられている。企業ごとに囲い込まれた系列化された販路に、企業名を冠した新製品を絶え間なく投入して行く。未熟な消費者の目先を変えながら、計画的に製品の陳腐化を実行する。それは、本質的な製品差別化ではないので、同質的で激しい価格競争に導かれる。日本企業のマーケティング戦略が、学習した賢い消費者の出現と価格破壊を志向した流通とのハザマで苦しんだ10年間の象徴であった。
ブランド・マーケティングを展開しようとしながら、他方で価格破壊の時代を経験したメーカーは、つぎの付加価値戦略を模索しはじめている。石井の論考(1999)は、米国マーケティングをわが国の現実に適応させながら翻案して作り上げた「日式マーケティング」への一つの処方箋を提示したものである。  メーカーに対する対抗力とも思える流通業者にとっても、事情は似たようなものである。いまや製造小売業の全盛時代である。自社PB商品が町と店舗に溢れている。
石井(1999)の主張は、簡素すぎるくらいにシンプルである。日本型マーケティングで見直しが必要なポイントは、差別性の高いブランドを構築すること。そして、見込み型の大量生産を前提に組み立てられた、系列化された販売チャネルと投機型生産方式を見直すことである。論点は、この二点に集約できる。それでは、その先に来るマーケティングの現実は、いったいどんなものなのであろう?

<参考文献>
(1)小川孔輔・林廣茂(1997)「米日間でのマーケティング技術の移転モデル」『マーケティング・ジャーナル』
(2)小川孔輔・陸正(1999)「米日間でのマーケティング技術の移転:花王のケース」『グノーシス』(法政大学産業情報センター紀要)
(3)P・コトラー他(1995)『マーケティング原理』ダイヤモンド社
(4)R・S・テドロー(1993)『マス・マーケティング史』ミネルヴァ書房
(5)R・バーテルズ(1979)『マーケティング理論の発展』ミネルヴァ書房
(6)マーケティング史研究会(1995)『日本のマーケティング』同文館
(7)T・レビット(1971)『マーケティング発想法』ダイヤモンド社
(8)P・コトラー(1985)『日米新競争時代を読む:日本の戦略とアメリカの反撃』東急エイジェンシー
(9)吉野洋太郎(1996)『日本のマーケティング:適応と革新』ダイヤモンド社
(10)池尾恭一(1999)『日本型マーケティングの革新』有斐閣
(11)小川孔輔(1999)『マーケティング情報革命』有斐閣