長い技術交流のあとでの事業成果:資生堂AUPRES in China(後編)

 資生堂の取締役会は、中国進出にそれほど積極的だったわけではなかった。しかし、当時取締役外国部長だった福原現名誉会長の説得に折れて、1991年に資生堂麗源化粧品有限公司(SLC)が設立された。
 北京市経済特区の工業団地に入居した第一号企業として、現地ブランドの化粧品”AUPRES”の生産がはじまった。


<ブランドは欧州、技術は日本>
 合弁事業がスタートした1991年時点では、国産高級化粧品という市場が存在していなかった。未開の市場を開拓するに際して、中国事業を陣頭指揮していた福原外国部長(当時)は慎重にイメージ・ポジションを探った。いま回顧しても、実に巧みなマーケティング戦略が当初から展開されている。
 ブランド名は、ヨーロッパを連想させる”AUPRES”(フランス語で「そばに」「傍らに」の意味)。それを日本の優秀な製造技術で保証するという意味合いから、”(by) SHISEIDO”で裏書きすることにした。資生堂の”AUPRES”(オプレ)が和魂洋才のブランドであることを、アジア太平洋地区の総責任者を務めている原良一社長が解説してくれた。
 「”AUPRES”のパッケージは、表面と裏面とで表記を意図的に変えているのです。表面はすべて欧文表記で、ブランド名の”AUPRES”やその他の効能などは英文で記述されています。例えば、製造元の資生堂は、パッケージの表面では「研究所」を意味する”SHISEIDO Laboratories”と表記されています」(資生堂アジアパシフィック(株)、原良一社長)
 たしかに偉い白衣のドクターに良薬を調合してもらえる雰囲気があって、何となく安心感が持てそうな気分になる。裏面を見ると、今度はブランド名も処方も漢語で表記されている。中国人は欧文名称を漢語に翻訳する天才である。コカ・コーラを「可口可楽」と翻案したのを見てわかるように、見事な言語センスを持っている。というわけで、”AUPRES”の中国ブランド名は、「欧珀来」(オポライ)である。欧州伝来の商品であることがニュアンスとして伝わってくる。

 <製品の基本コンセプト:肌に自然な潤いを与える化粧品> 
 もうひとつ重要なのは、中国初の高級化粧品ブランドとして、基本コンセプトをどのように設定するかであった。一般的に中国の市場は、揚子江を境にして性質の異なるふたつの市場に分断されると言われている。すなわち、北京を中心とした「北」の市場と上海を中心とした「南」の市場である。化粧品についても、そうした事情は同じである。
 北と南とでは、消費者もビジネス環境も基本的に異なっている。したがって、北京と上海のどちらから事業を始めたかによって、後々の事業構造が大きく変わってしまうことさえある。中国へ進出した日本企業の長期的な事業パフォーマンスを決する分水嶺になるほど、これは重要なパラメータであるとの仮説を筆者は持っている。
 資生堂の場合、1980年代初頭の製品輸出段階から、1991年に「北京麗源」と組んで合弁事業を立ち上げるまで、北京市に化粧品事業の中心があった。出発の地が首都だったことを受けて、資生堂の国産化粧品”AUPRES”は、乾燥した北の気候・風土に標準をあわせた製品コンセプト作りをしている。”AUPRES”の製品コンセプトは、「厳しい自然環境から肌を保護し、潤いを与えた健康な肌を保つ」である。英語表現では、”Natural Moisture Balance”となる。資源線が強烈で乾燥した自然環境が、化粧品のコアベネフィットを訴求する前提になっている。
 「南北分水嶺仮説」を支持する興味深いデータがある。2002年の時点で、資生堂の北と南の売上比率は6:4である。中国全体では、一般消費財では南のウエイトが高い傾向がある。にもかかわらず、資生堂の化粧品だけはいまだに北高・南低の状態が続いている。ちなみに、現在でも中国の化粧品販売は、スキンケア製品の構成比率が高い市場である。 「日本国内では、スキンケア40%、メーキャップ26%、ヘアケア30%、残りの4%がその他という割合です。これに対して、中国では売上のほとんど(?  %)が、いまだにスキンケア製品で占められています。メイキャップ市場の開拓はこれからなのです」(高野洋幸SLC総経理)。

 <合弁相手先企業の人材選抜> 
 中国で取材をはじめてから約1年間、中国ビジネスの成功法則らしきものがしだいに見えてきた。それは、現地オペレーションやマーケティング戦略がうまく機能している企業は、合弁相手先に日本的なビジネス慣習を理解し、なおかつそれを実行に移すことができる優れた人材を抱えていることである。そうした人材は、10年以上の長い期間にわたって、日本企業で働いてくれている現地の人たちである。
 彼らや彼女たちは、しばしば過去において日本への留学生であったりする。また、台湾や香港、タイやマレーシアなどの日系企業で働いた経験のある華僑の場合もある。アジア太平洋担当の日本人マネジメントと、そうした中国人チームの間で良好な人間関係を築くことができれば、現地の事業は良い方向に走り始めるようである。
 資生堂のケースで言えば、合弁企業の「資生堂麗源化粧品有限公司」には、ふたりの中国人キーパーソンがいる。ひとりは、マーケティング企画室の金義鳴部長(? 歳)。北京大学日本語学科を主席で卒業した彼女は、事業提携先の「北京麗源」から新会社の幹部候補生としてノミネートされた5人のひとりである。もうひとりは、美容部員の教育訓練を担当する王竹凝部長(?歳)。中国全土約80カ所の百貨店に常駐している約1,400人の美容部員を束ねる役割を果たしている。事業開始から10年後のいまでも、5人全員が合弁会社の中核となって働いている。
 資生堂本社の海外事業部門でも、アジア太平洋戦略を支える人材が育っている。中国事業の成功は、1957年の台湾進出以降、タイ(1959年)、香港(1962年)、イタリア(1963年)での海外事業部門の経験が生かされている。資生堂の中国事業は、一夜にして築けたものではない。福原名誉会長が北京へ向かう遙かな昔、45年前に先人たちの助走路を建設するための工事は始まっていたのである。

 <百貨店飛び石作戦>
 北京の工場建設から2年後、本格的に国産高級化粧品の市場開拓がはじまった。永井良規所長(現在、上海営業所勤務)が出張ベースで中国事業を担当するようになったのはこのころである。高級化粧品を販売できる場所は、当時も今も都市部の百貨店に限定される。1993年に上海を訪問した永井所長は、国営デパートを営業に歩いた。結果は惨憺たるものであった。国営百貨店は、商売気がなかった。高級化粧品の販売は、女性に夢を売る仕事である。単に商品を並べるだけでは売れない。販売環境を整えてイメージカウンターを設置する必要を説いたが、永井の主張はまったく相手にされなかった。
 永井所長の苦境を打破する助けになったのは、台湾から進出してきた「太平洋百貨店」であった。台湾や香港で資生堂ビジネスを見て理解してくれていたので、担当者の説得は早かった。永井所長は、当初の導入を外資系百貨店に限ることにした。日本から「上海伊勢丹」(一号店)が出店してきたので、これも資生堂にとっては弾みになった。
 「福原社長の主張された”三高政策”(ハイクオリティ、ハイサービス、ハイイメージ)を指針に、無理をして販路を広げなかったのがよかったのだと思います」(永井所長)
 当初の苦戦がまるで嘘のように、1997年から1998年にかけて、地方百貨店から出店依頼が増えてきた。2002年末現在、100万都市の出店はほぼが終わっている。主要な80都市に進出し、3ブランド(クレドポー、資生堂、オプレ)の合計で366カ所のカウンター(各4カ所、 62カ所, 300カ所)を構えるまでになった。製品ラインも拡張されている。上級ブランドとして”AUPRES DX”が追加され(1999年)、男性化粧品の”JS”がラインナップに加わった(2001年)。
 資生堂の成功は、日中の文化交流の歴史に裏打ちされたものである。ファッションに対するテーストの近さは驚くばかりである。びっくりしたのは、中国人の若者たちの日本人タレントに対する受容性の高さである。たとえば、ファッション雑誌の「Oggi」(小学館)は、写真とキャプションがダイレクトに中国語に翻訳され販売されている。資生堂は、この春から中国でのイメージキャラクターに、タレントの仲間由紀恵を起用することになった。仲間は沖縄出身である。彼女のアピアランスもファッションテーストも、台湾・中国に近いものを感じさせる。おそらくキャンペーンは大成功に終わるだろう。

 出典:「長い技術交流のあとでの事業成果:資生堂 AUPRES in China(後編)」
     チェーンストアエイジ 2003年6月15日号