アンティ松井(69歳:松井としきよ)は、何でも世界一が好きである。奈良県から農業実習生としてカリフォルニアに渡って、今なお米国で活躍し続けている唯一の日系花生産者である。
3月の上旬に、久しぶりにサリナス(米国カリフォルニア州)のアンディから電話があった。「台湾に仕事で行くので、久しぶりで会いたい」という連絡である。翌週、銀座のホテル西洋で食事をした。相変わらずの元気である。元気な人が元気なままでいる姿を見ることは、わたしたちの精神安定にとてもよろしい。
1994年までのアンディ松井の事業については、拙著『花ビジネスで成功する法』草土出版、に詳しく書かれている。独特の人生哲学とバイタリティにあふれた人物である。豊になった移民日系人のなかには、この先アンディのようなパワフルな人物は現れることはないだろう。第二次世界大戦後の日本という時代が生んだ、希有で強烈な人格である。
* * *
松井ナーセリーは、1970年代の一時期、米国で消費される大輪菊の15%を生産する全米一の菊栽培者でアメリカの菊の市場価格を操作していた。南米から花が輸入され始めた10年後の80年頃に、今度は全米一のバラ生産者に変わった。それで終わりかと思いきや、わたしがアンディーとはじめて会った92年頃には、160ヘクタールのユーカリ畑を造成中であった。プリザーブのユーカリで、世界制覇をめざす最中であった。私自身が輸入して加工販売しようと試みたこともあったが、独特のにおいが日本人に嫌われ、市場を作るまでには至らなかった。
彼のユーカリ事業は、最終的にはあまりうまくいかなかったが、アンディは例によって運が強かった。160ヘクタールの畑が住宅開発区域に指定替えになったからである。彼には、売却益として約50億円が入って来ると云う。アンディに言わせると、これを見通してユーカリ畑を購入していたのだという。10年前にわたしが訪問したときは、何の変哲もないただの田舎の農地であった。
* * *
神様はまったくもって不平等である。バラの生産から手を引きかけてユーカリ畑を拡張するときには、すでにペブルビーチ・ゴルフコースのフェアウエイが見えるところに、たいそう立派な豪邸を持っていた。一泊させてもらったことがあるが、部屋の数がわからないくらい大きな家であった。そういえば、奥さんのために接客用のお茶室と見事な日本庭園が作られていたことを覚えている。
子供さん4人はすべて、「推薦入学で押し込んで、ハーバード大学を卒業させた」(本人の弁)。「長女の出来が良かったので、後の3人は”芋づる式”」とも言っていた。そのお子さんのひとりが、証券アナリストとして有名なキャッシー松井(ドイツ人と結婚して在日)である。お孫さんと会うためにではなく、いま年に2~3回、松井さんは自分のラン商売のために日本や台湾、中国本土、タイなど、アジアの国々をしばしば訪れている。
第二次世界大戦後、サリナスやワトソンビルに定着した日系一世達が、つぎつぎとカーネーションとバラの生産から撤退していくのを尻目に、彼は94~95頃から着々と準備を整え、いまや世界最大のラン生産者になった。ランの栽培を始めてわずか6年である。彼のランの温室の総面積は27ヘクタールで、まだ増築を続けている。相変わらず運がよい人である。元気が運を運んでくるだけでなく、「長期的な見通しを立てて、徹底的にリサーチ(調査研究)をする」(アンディ)。そして巨額の資金を投資するために、アンディ式には誰も追随ができない。彼に対抗出来そうな他の資金豊富な大企業はといえば、担当者が調査不足と大企業病に罹患している。最終的に小回りがきく勇猛果敢な松井ナーセリーさんにはとても対抗できない。
* * *
松井さんの永遠のライバルは、日系二世の花生産者の大物、シミ柴田である。柴田さんは、第二次世界大戦中のマンザナー強制収容所を経験した。帰還後に、米国の花業界で活躍したこと(全米花卸売協会会長)と、日系人への賠償金支払い裁判で指導的役割を果たしたことが評価され、10年ほど前に「ニューズウイーク」のトップ誌面を飾ったこともある。
おそらく80歳をとうに超えているはずだが、シミ柴田(柴田善美)がいまも健在であることを知らされてうれしかった。「自分の年を息子(ロバーツ柴田)に聞かないとわからなくなっているよ。柴田さんは、あははーー」と相変わらずの憎まれ口をアンディはたたいていた。柴田さんがいるから、アンディは頑張れるのだろう。柴田さん亡き後、松井さんは相変わらず元気でいられるだろうか?
ともあれ、いまや別の品目で、再び頂点に上り詰めている松井さんではある。もう次を考えていると言っていた。元気な人である。