続・当世ブランド物語「ユニクロ(前編)」1999年2月15日号

続・当世ブランド物語『チェーンストア・エイジ』1999年2月15日号*1
第9回「ユニクロ:ファーストリテイリング(前編)」  法政大学経営学部 小川孔輔
 <防府天満宮前の洋品店>
 ある雑誌の紹介記事で、「新設大学のおしゃれなキャンパス」と形容されたファーストリテイリングの本社を訪れたのは、昨年(1999年)末の12月24日だった。


当初予定していた17日が、柳井社長の仕事の都合でいちどキャンセルになり、訪問はクリスマスイブの日になった。すぐに対応してくれた広報担当の青野光展さんに感謝するとともに、これはラッキーと実は思った。他人が訪問を遠慮しそうなイブの日であれば、柳井社長からふだんよりはゆっくりと話しが聞けそうだったからだ。
 アシスタントの青木恭子が、取材費を切りつめるためにANAの早朝割引便(羽田7時50分発)をとってくれたのはよかったのだが、柳井社長とは午後1時からのアポイントで、午前中の時間がまるまる空いてしまった。先日から実家に先に戻っていた山口出身の彼女のアドバイスにしたがって、とりあえずユニクロの本社がある山口テクノパーク(空港から約20分)を素通りして、空港で借りたトヨタ・ヴィッツを防府インターチェンジまで走らせた。防府天満宮にお参りして、来春に高校と大学を同時に受験するふたりのこどもたちのために、合格祈願のお守り符を買うためである。
 雨上がりで空気がひんやりと澄んでいる。防府天満宮の参道をぶらぶら散歩していると、たまたま古い店作りの和菓子屋を見つけた。放浪の詩人・山頭火が生まれたこの町で、万延元年(1860年)に創業した「双月堂」である。手ぶらで来てしまったので、山頭火由来の練りの和菓子をおみやげに買うことにした。まったくの偶然である。初対面の柳井社長に、午前中のわれわれの行動を伝えて双月堂の包みを渡すと、柳井さんは目を細めてにっこりと笑った。ファーストリテイリングに社名が変わるはるか昔の25年前に、前身の小郡商事は、防府天満宮前の商店街に店を構えていたのである。当時の店舗数は、宇部、防府、下関の3店舗。小郡商事は、紳士服主体でVANショップと一部婦人服とワンポイントの商品を販売するふつうの洋服店だった。
 「今は仏壇屋になっているはずですよ」(柳井社長)。わたしは、ひっそりと静まり返った商店街のたたずまいを思い返してみた。1973年、早稲田大学政治経済学部を卒業してから勤務したジャスコ(四日市店)を、柳井さんはわずか8ヶ月で退社している。しばらく東京でぶらぶらした後、地元山口に帰ってきた柳井青年は、われわれがその日たまたま通った道を、防府の店まで商品を積んでひとりクルマを走らせていたはずである。かつては地方の洋装店だったユニクロの原点と、若き日の商人・柳井正がとぼとぼと歩いていた仕事の原風景を見る思いがした。

 <パソコンの前に座っているシャイな経営者>
 「(山口は)何もないところでしょう」(柳井社長)。「たしかに、そう言われてみればそうですね。でも空気がきれいだし、今夜は温泉にでも泊まろうかなと思っています」(小川)という会話で始まった午後のインタビューは、予想していた通りにゆったりと進んだ。ちょっと失礼かなと思われる挑発的な質問に対しても、柳井社長は決して過剰に反応することがない。淡々と答えてくれる。きっと興が乗っているのだろうなと思えるときは、ふつうにニコニコしているだけである。「われわれの前では、めったに言葉を荒げることがないですね」(広報担当の青野氏)。
 柳井社長とお会いする前、ユニクロに関する取材記事をときどき書いている、友人の田中陽記者(日本経済新聞社)から、「忙しい経営者のなかでは、わりに気軽に会ってもらえる方ですよ」と聞かされていた。本誌『チェーンストア・エイジ』の田原寛記者からは、「ブランド名(ユニクロ:ユニーク・クロージング・ウエアハウス)と同じで、ちょっと変わった経営者ですよ」という情報をインプットされていた。
 実際に柳井社長にお会いしたときの第一印象は、「不思議な透明感のあるひと」であった。目立ちたがりで自惚れ屋が多いベンチャー経営者に対して、これまでほとんど感じたことがない透き通った印象は、原稿を書いているいまでも消えることがない。不思議な透明感の源泉は、おそらく本人の生いたちにあるような気がするのだが、シャイな柳井社長の答えは、「プライベートについては、とくに話すことがないですから」としごくそっけない。
 柳井社長は、一日のほぼ3分の1をパソコンに向かって過ごす。社内の情報ネットワークを通して入ってくる各種のデータを見たり、社内外から送られてくる電子メールを読んで必要なものだけにはすぐに返事を書く。一日に最低100通は送られてくるという電子メールは、用件が済んだらすぐに削除するという。残り3分の2は、打ち合わせの時間に費やされる。ファーストリテイリングの仕事場には、仕切りというものがない。だから、本社ビルに入ると建物の中は、やたら明るくて大きな「体育館」に見える。
 唯一の例外が社長室である。楕円形の木製テーブルが中央に置いてある社長室は、だからしばしば打ち合わせ場所に使われる。ファーストリテイリングには、即断即決をよしとする社風がある。しかも、決めたことはすぐに実行に移されなければならない。「本部で決めたことは、机上の空論。現場の作業に落とし込めるように、できるだけ早く仕事を組み立て直す。素早いフィードバックが求められる」(柳井)。
 取材のために資料を見るまで、ユニクロに関して誤解をしていたことがひとつあった。ファーストリテイリングの「ファースト」は、”First” (一番)の意味ではなく、「ファーストフード」の”Fast”(速い)の意味であった。この日のインタビューも、予定されていた90分で、時間通り手短にきちんと終わっている。内容も過不足なく、必要にして十分な情報を得ることができた。柳井社長とユニクロの雰囲気が作り出す仕事のペースが、取材をスピーディに終わらせたのかもしれない。

 <1時間40分で電子メールが戻ってくる> 
 徳山市郊外の湯野温泉・壽仙荘の離れに泊まって泉質のいいお湯に浸ってひとりゆったりとくつろいだ翌日、山口宇部空港から東京に戻った。市ヶ谷の事務所から、さっそく電子メールを柳井社長に送ってみた。同じころに東京で学生時代をすごした柳井社長に、わずか90分の取材ではあったが、何となく親近感を感じたからである。いつもの習慣で、とりあえず取材の御礼をしたかったからでもある。
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Date: Saturday, December 25, 1999 1:38 PM
From: 小川 孔輔 <******@nifty.ne.jp>
To: 柳井 正 <*****@uniqlo.co.jp>
Subject: 御礼
 柳井 正 さま
おはようございます。
昨日の取材では いろいろご配慮いただき
 ありがとうございました。
 あの後20~30分ほど 青野さんには
 別途に 柳井社長のことをおたずねしました。
 今後ともよろしく お願いいたします。
 何となくの直感ですが この取材だけでなく
 この先も ご縁があるような気がいたします。
 原稿ができあがりましたら とりあえず
 電子メールに添付させていただきます。
 まちがっても 100通のメールのひとつとして
 即削除なさらぬように お願いいたします。
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  小川孔輔(オガワ コウスケ)
  法政大学経営学部教授(マーケティング担当)
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 電子メールへの返信は、1時間40分後に戻ってきた。「日本の社長は働かない」と言っていた柳井さんは、いつものように、翌25日のクリスマスにも、社長室のパソコンの前に座っていたことになる。冗談もきちんと通じたようだった。
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Date: Sat, 25 Dec 1999 15:19:30 +0900
From: 柳井 正 <******@uniqlo.co.jp>
To: ‘小川 孔輔’ <******@nifty.ne.jp>
Subject: RE: 御礼
 小川様
 先日はありがとうございました。
 小川様の名前は削除しない様に気をつけます。
 今後ともよろしくお願いいたします。
 柳井
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 <恬淡として仕事をこなす>
 わたしはこれまでたくさんの経営者と会ってきたが、柳井社長以上に、”恬淡として”決定を下していくトップは見たことがない。ここ数年のユニクロを見ていると、業績・株価ともに「ジェットコースター」のようにアップダウンが激しい。精神的にそうとうタフな経営者でも、経営上の判断は大きく振れるはずである。ところが、節目節目での事業の曲がり角にあって、柳井社長には動揺している様子がまったく見られない。周囲の雑音を気にすることなく、静かに決断を下しているように見える。
 98年度は、わずか一年でふたつの業態(スポクロ、ファミクロ)からの撤退を余儀なくされ、既存店の売上高が対前年比で約8%減少した。創業以来のピンチを経験していたこの年に、とくにプリントメディアの報道のなかには、「どうしたユニクロ!」と会社の存続そのものを危ぶむ声さえあった。ところが、同年12月に東京原宿に若者をターゲットにした店舗を出店。さらに、マスコミの話題を一気にさらった抜擢人事では、業界外から若いふたりの取締役(堂前宣夫29歳:マッキンゼー・アンド・カンパニー、森田政敏36歳:伊藤忠商事)をスカウト。取締役会のメンバーを総入れ替えするや(実際は、ふたりの非常勤監査役と創業以来柳井社長を支えてきた浦利治常務は留任)、翌99年度決算では、売上高が1,000億円を一気に突破し、当初予想を大幅に上回る好業績となった(図1)。
 この間にわずか一年で、株価は2,000円から4万円まで20倍に急上昇している。そんな中にあって、柳井さんは自分のペースを崩さず、「世界有数のカジュアルウエア企業になる」という目標を遠くに見据えている。監査役の安本隆春氏が書いた『ユニクロ監査役室実録?』によれば、柳井社長の構想はすでに、84年にユニクロ1号店を広島市袋町に出店したときから、一貫して変わっていないという。

 <世界のカジュアルチェーンを標準とする>
 ファーストリテイリング社長の柳井正は、1949年10月に山口県宇部市で生まれた。姉ひとり妹ふたりに上と下から挟まれた4人兄弟(姉妹)のなかで、唯一人の男の子として大事に育てられた。昨年(99年)2月に他界した父親の柳井等は、土木建設や不動産業などの仕事を手広く扱う「地方の名士」であった。政治と密着した父親の仕事ぶりに、息子の正はすくなからず反発を感じていた。そのことが、その後に商売をするうえでバネ(推進力)になっていると思われるところがある。
 父の等は本業以外に2店舗の洋装店を経営していた。ジャスコへの就職は、父親が当時手がけていた事業(ショッピングセンターのビル会社経営)と無関係ではなかった。山口へ戻ってきた正に、父は2店舗の経営を完全に任せることにした。しかし、仕事を引き継いでから数年もしないうちに、当時8人いた従業員のうち、ひとりを除いて全員が小郡商事を去っていた。
 「大学を出たばかりで何もわからないくせに、理屈ばかり言う生意気な若造にいや気がさしたんでしょうね」(柳井)。現在は常勤監査役を務めてくれている浦とふたりになった柳井は、パートの女子従業員を使いながら、商品の仕入から販売、資金繰りまで、小郡商事の業務の一切を自分で切り盛りすることになった。
 しかしながら、山口という地方で洋服店を数店経営していた時代に、柳井の眼は世界のファッション業界を見ていた。「ごくありきたりなふつうの学生だった」と本人が言う早大時代に、米国や欧州に柳井は何度か旅行している。裕福な地方の資産家の長男として育ったことが幸運ではあったのだろう。洋服店の仕事をはじめたばかりのころに、カリフォルニアに渡って、抜かりなくギャップの1号店を訪問している。当時のギャップは、リーバイスのジーンズを扱う小売店であった。そのすこし後には、米国ではリミティド、欧州ではマークス&エンド&スペンサーやネクストを視察している。「いつか世界有数のカジュアルウエアのチェーンになる」という目標を定めて、早くから世界の優良カジュアル小売企業に、柳井は標準を定めていたのである。(後編につづく)

(注)*1 本稿は、柳井正社長((株)ファーストリテイリング)へのインタビュー(1999年12月24日)に基づいて書かれている。一部、文中で敬称を省略させていただいた。