続・当世ブランド物語「ユニクロ(後編)」1999年3月15日号

続・当世ブランド物語『チェーンストア・エイジ』1999年3月15日号*1
第10回「ユニクロ:ファーストリテイリング(後編)」  法政大学経営学部 小川
孔輔
 <3段飛びの法則>
 地方の小売業がナショナルチェーンに成長していくまでのプロセスには、世界共通のある法則性が観察できる。


売上高1,650億ドル(約16兆5,000億円)で、フォードを抜いて世界第3位の企業に躍進したウォルマートもこの例外ではない。アーカンソー州の小さなディスカウント店が世界最大の小売りチェーンに成長していく過程では、筆者が「小売業の地理的展開に関する”3段飛びの法則”」と呼んでいる発展過程をウォルマートも経験している。*2
 「ホップ」の段階は、小売業発祥の地(市町村)から出て、出身都道府県内の主要都市を当該小売業の店舗(たとえば、鳩のマーク)で埋め尽くしてしまうところまでである。基本的な店舗コンセプトさえしっかりしていれば、ローカルな市場と地元消費者の顧客特性を熟知している経営者にとって、自社を地方で名の通った小売りチェーンに育てることはそれほど難しいことではない。
 「ステップ」の段階は、店舗数が20~30店を超えて、隣接県に出店を始めるときである。売上高が50~100億円を突破し地元の有力チェーンに成長すると、創業経営者は株式の店頭公開を考えはじめる。この段階で、たとえば、「関西スーパー」のように、優秀な小売業ではあっても、その地域に留まり地理的な展開を望まない企業は少なくない。商品調達の問題、進出先の雇用環境の違い、経営陣のフィロソフィー(大きいことを必ずしも良しとしない考え方)などが、その理由としてあげられる。
 「ジャンプ」の段階は、ダイエーやジャスコがかつてそうだったように、首都圏(東京)に遡上して店舗を構えるときである。最近の特徴としては、本シリーズ(連載第5~6回)でとりあげた「マツモトキヨシ」のように、渋谷、原宿、新宿、銀座のような情報発信力が強い街区(スポット)に、落下傘的に旗艦店を出店するケースが増えていることである。モデル店舗のプレゼンスとテレビ広告の大量投入によって、全国区レベルの評判を獲得した小売業は、ローカルで地味な企業イメージから脱皮していく。にわかに知名度が高まったことで、品質など商品面では何の変化もないにもかかわらず、その人気が地方や都市近郊の店舗に環流していく。既存店ベースの売上高が、この段階で目に見えて伸びはじめる。
 飛躍のためのクリティカルマスは、300店舗で1,000億円。ユニクロがカジュアルウエアの市場を席巻していくプロセスには、この3段飛び理論がきれいに当てはまる。カジュアルウエアの全国チェーンとして認知されるまで、ユニクロが歩んできた成長の軌跡を整理してみることにする。

 <広島袋町のユニクロ一号店>
 1984年までの小郡商事は、「メンズショップOS」という名前で6店舗の洋品店を経営していた。取扱商品の中心は紳士服で、ワンポイント商品(マクレガー、トロイ等)と一部でVANショップと婦人服を扱うごくふつうの洋品店だった。小郡商事が事業の転換点を迎えたのは、ユニクロ一号店を広島に出店したときである。
 東京から山口の宇部に引っ込んだ柳井ではあったが、いつか東京にショップを持ちたいと思っていた。その第一段階として、中国地方でとりあえず進出を考えた都会が広島であった。同年6月、広島市の繁華街・袋町のマンションビル1階に、長年の夢であったカジュアルウエア小売業の「ユニクロ袋町店」(1991年8月に閉店)をオープンした。「ユニクロ」(Uniqlo: Unique Clothing Warehouse)の店舗名で展開を始めたこの店では、メインの顧客が10代の若者であった。
 間髪を入れずに翌年(1985年)6月には、下関市の郊外に2号店「ユニクロ山の田店」(1991年8月に閉店)を出店した。当時は、青山商事(紳士服)やオートバックス(カー用品)など、都市近郊の幹線道路沿いにロードサイド店が続々と建ち並び、専門店の新しい業態として急速な成長を遂げていた。カジュアルウエア業態でも郊外型の立地が成立するかどうかを、柳井は自らの手で試してみたかった。
 続いて同年10月に出店した3号店「ユニクロ岡南店」は、オートバックスの店舗跡地を利用したものであった。岡南店は売場面積が150坪で、カー用品の店としては成功がすでに保証されている立地だった。岡南店の成功体験は、店舗開発に関して「バイパス経営」ができることを示してくれた。業績がそこそこのロードサイド店の立地は、カー用品店に限らず、カジュアルウエアの店舗用地としても利用できるという簡易ルールの発見である。

 <年齢・性別不問の無印ギア>
 郊外型店舗(山の田店と岡南店)に来店する顧客層は、ティーン主体のユニクロ袋町店とは大きく異なっていた。店頭で来店客を観察していると、男女がほぼ同数で、あらゆる年齢層をカバーしていることがわかった。ノンエージでユニセックスという「非セグメンテーション」が郊外型店の特徴だった。「あえて顧客をターゲティングしない」というマーケティングの考え方と、「ファッションの部品(ギア)を販売する」というマーチャンダイジングの基本コンセプトを確立できたことは、その後のユニクロのビジネス展開を決定的に方向づけることになった。
 ユニクロの商品には、ブランドを表すロゴマークが入っていない。”無印”であることは、組み合わせる相手を選ばないということである。ユニクロのそうした商品特性は、他のどのような”部品”とのコーディネーションをもごく自然に感じさせる。また、身につける人の年齢・性別を問わないことは、家族や恋人との間での使い回しを可能にする。そのことは、単に消費者に利益を与えているだけではない。メリットをいちばん大きく享受しているのは、ユニクロ自身である。デモグラフィックス(人口統計的な指標)で消費者を分けると、ふつうは男女と年齢層5区分で、合計で10セグメントになる。年齢・性別が不問のユニクロ商品は、単純に考えても単品の売上効率が10倍になることがわかる。 今年の冬に全国で800万枚が売れたフリースの大ヒットは、フロックではない。かりにユニクロが狭くターゲットを絞った商売をしていれば、大ヒットをしたとはいっても、この冬シーズンに売ることができたフリースの枚数は、せいぜい100万枚が上限だったことになる。商品の販売効率の高さは、後に述べるように、海外調達からのスケールメリットを最大限に利用することを可能にする。単品の発注数量が通常のビジネスで考えられる規模をはるかに超えることで、ほぼすべての商品の価格をドラスティックに引き下げることができる。低価格での販売が数量効果を生み、それがまた商品調達におけるスケールメリットを生み出す。この好循環がユニクロの高成長と高収益を支えているのである。

 <小売チェーンへの道>
 中国地方でメジャーになりはじめたユニクロは、第2ステップとして、大量出店による本格的なチェーン化を目指すことになった。1988年の全店POSシステム導入に続いて、1989年には、自社企画商品の開発体制を充実させるために、大阪府吹田市に商品部の大阪事務所を設置した。SPA(製造小売業)への第一歩である。
 柳井が重点出店地区と考えたのは、北九州地区と中京地区(愛知県の一号店は1989年)であった。「本社からの距離が近いこと、起伏が少ない平野部であること、周辺に衛星都市が発達していることの3つが条件でした」(柳井)。後ろのふたつは、ユニクロの標準店を支えるために、後背地が15万人以上の商圏人口を持っていること、来店手段としてクルマの利用が可能であることが出店の条件だったからである。
 余談になるが、柳井社長によると、ユニクロが出店可能な立地は全国に3,000カ所(少し前までは1,000カ所)あるという。この数字は、ファーストフード業界トップのマクドナルドの店舗数を根拠にしている。「花屋さんは全国に2万5千店、薬屋さんは約5万店以上はありますよ。日本全国にある商店街の数がほぼ2万5千カ所だそうですから・・・」と筆者が切り出すと、「なるほど、そうか・・・2万5千店ですか・・・」とうれしそうに顔をほころばせて、上体を前に乗り出してきた。
 実際に大量出店が始まったのは、1991年に入ってからのことである。1994年までに広島証券取引所に株式を上場することを決意した柳井は、この年(1991年)、旧社名の小郡商事を「株式会社ファーストリテイリング」に変え、新社名を社員の行動指針とした。翌年(1992年)、柳井は年間で33店舗を一挙に出店するという離れ業を成し遂げている。その前年まで、小郡商事全体ではその半分にも満たない22店舗だったこ
とを考えると、これは驚異である。
 「ちょっとだけ自分が他人より優れている点があるとすれば、それはいったん目標を定めたときの集中力だと思います。」(『プレジデント』1999年10月号のインタビューで)という柳井のパワーが実証されたわけである。

 <機能分担組織で小売り産業になる>
 ファーストリテイリングの社名を筆者がはじめて耳にしたのは、1994年の秋である。法政大学が主催する「ファッションビジネス公開講座」のゲストスピーカーとして、「伊藤忠ファッションビジネス(株)」社長の丸山武勇氏をお招きしたときのことである。「カジュアルウエアのSPAとして、ユニークな事業展開をしている企業が山口にある」という講演内容だったように思う。現在の経営陣を見てみると、副社長の沢田貴司氏(1997年入社)や常務取締役の森田政敏氏(1998年入社)など、伊藤忠商事にゆかりのある経営幹部がボードメンバーに名前を連ねていることは、これと無関係ではなさそうである。
 30歳代の若者を同社の経営陣として異業種から迎え入れたことについては、柳井なりの計算があった。ユニクロを本格的なSPAに飛躍させるためには、商品の企画段階を含めて製造直売に乗り出すことが必要だった。それは、SCM(サプライチェーン・マネジメント)を徹底させることであり、ありていに言えば、問屋を中抜きすることである。商品の企画、生産、販売のスケールメリットを生み出すには、ドライに商売を進めるしかない。ところが、従来からの取引関係を見直すことに、20年間側近だったある幹部が難色を示した。そして、意見が対立したこの幹部は、柳井の元を去って行った。
 柳井流の歯に衣を着せない物言いには、側近たちもハラハラすることが多いだろう。役員を総入れ替えしたことについて、柳井は何の衒いもなくクールに話す。
 「1,000億円までの企業と売上高3,000億円で世界標準をめざす企業では、必要とされる人材の質がちがいます。広島証券市場での公開で株価が上がり、幹部役員は十分すぎるカネをつかんだはずです。仕事に対する意欲を失ってしまったのですね。でも、ひとはそれぞれ能力に見合った道を歩いていけばいいのです。」
 柳井本人は「冷たくていやなやつ」と自らのことを自嘲ぎみに話すことがある。しかしそれは、ひとはそれぞれの役割に徹して活躍する場を与えられたときに、いちばん幸せに働くことができるという思想に基づくものである。プライベートとビジネスを自在に切り替えることができる便利なスイッチを、柳井は持っているように見える。
 「休み時間に会社の芝生で、社長がひとりゴルフのボールを転がしているのをよく見かけることがあります。退社した元幹部の皆さんとは、しばしば休日にゴルフをすることがあるようですよ。」(広報担当の青野光展さん)
 外部からの知恵の導入とスカウト人事は、徹底した業績主義と機能主義を追求した結果である。沢田副社長は、店舗運営を担当し、堀端雄二専務(1992年入社)は、人事と教育に責任の持つ。マッキンゼー出身の堂前常務は、情報システムとロジスティクスを、森田常務は、管理本部長として総務と財務を見ながら、出店計画を立案し、IBMから来た玉塚取締役はマーケッティングの役割を担っている。
 「チーム経営では、トップが『全知全能』である必要はない。『クリエイティブ』でさえあればよい。頭のいい人は世の中にたくさんいる。彼らの良いところを引き出し経営者としての教育をして、経営の方針を明確に指示できることが、わたしの役割です」(柳井)

 <ギャップがかすんで見える!>
 1994年に広島証券取引所に株式上場する時、ユニクロが100店舗を超えるまでに要した時間はわずかの2年。1996年4月には、関東地区の郊外に出店を始めた。4月に埼玉と千葉、5月に東京と茨城、11月には神奈川のユニクロ一号店が小田原にオープンした。12月になると、ニューヨーク市に100%子会社の「インプレスニューヨークInc.」を設立し、「米国でデザインした商品を中国で生産し日本で売る」という柳井の構想が実現した。
 しかしながら、2年後の1998年2月に新社屋を建設したところで、ユニクロは成長の踊り場にいた。標準的なユニクロの店では、約10人の従業員が働いている。正社員は店長と副店長だけで、あとはアルバイト社員によって運営されている。こうした状況下で急速な成長を助けるために、店舗とオペレーションの標準化を強力に推し進めていった。極端に本部に権限を集中しすぎたことが、逆効果となってあられてきた。1997年に300店舗を突破し、1998年も売上は増え続けていたが、既存店ベースでの対前年比の売上高と利益額が急速に落ち込んでいた。どの店でも商品が大量に売れ残り、逆に人気商品が品切れというのが常態となった。
 標準化から個店対応へ。柳井がギアを入れ替えた途端、ふたたびユニクロにフォローの風が吹いてきた。1998年12月に、はじめて都心に出した原宿店が評判となり、来店客が引きも切らない状態が続いた。「ユニクロの商品は安いうえに、それでいて質感がある。原宿のギャップを見た後でユニクロの店に入ると、安いのでついつい買いすぎてしまう」。若い女子学生の言葉である。同じような感想を、仕事仲間の中年男性からも聞かされたことがある。

 <社長と一緒に良い夢が見たい>
 「いつか東京にカジュアルウエアのショップを出すこと」を目標に働いてきた柳井にとって、原宿に店を構え、デザインセンターを東京に統合したところで、ひとつの夢が達成されたことになる。1999年の冬シーズンは、フリースが飛ぶように売れた。しかし、現在の高業績には、ややバブリーなところがある。心配なのは、世界に通用するSPAの仕組みを本当に完成できるかどうかである。
 「1998年にはじまった改革は道半ばである」と柳井は言う。グローバルなカジュアルウエアの企業にユニクロが成長するためには、解決しなければならない多くの課題がまだ残されている。『日経ビジネス』(1996年)の編集長対談で、柳井は3つの将来目標を掲げていた。海外進出、新業種の開拓、他社とのジョイント・ベンチャーである。柳井自身にそれぞれに優先順位はあるようだが、いずれすべてを実現するつもりでいるという。
 インタビューが終わって、本社屋の玄関を離れる前に、広報担当の青野さんがわたしたちに向かって言った。「社長と一緒に良い夢をみたい。そう思って、わたしたち社員は一生懸命に働いています。」
 社長室でいただいたユニクロの会社案内を見ると、センスの良いパンフレットの裏頁には、赤とピンクの文字でつぎのように書いてあった。
 ”HELP YOURSELF.”(天は自ら助くる者を助く)

(注)
*1 本稿は、柳井正社長((株)ファーストリテイリング)へのインタビュー(1999
年12月24日)と、以下の資料に基づいて書かれている。葦田万(1999)「特集吠える
社長:ファーストリテイリング」『プレジデント』10月号、『日経ビジネス』(1995
年4月17日、1996年1月15日、1998年12月21/28日、2000年1月17日の各号)。『チェー
ンストア・エイジ』1999年10月15日号。なお、本文中では一部で敬称を略させていた
だいた。
*2 サム・ウォルトン他(1992)『ロープライス・エブリデイ』同文書院インターナ
ショナル。