中国への日本ブランド移転物語(7):  優衣庫 in 上海(後編)

中国への日本ブランド移転物語(7)          2003年8月16日
「ユニクロ中国新国民服構想:優衣庫 in 上海(後編)」 法政大学経営学部 小川孔輔
 <リード文> 
 ユニクロブームが始まる直前の1998年末、ファーストリテイリング(株)の柳井正会長(当時、社長)は、自社の事業について3つの将来構想を語っている(本誌1999年2月15日号)。


(1)新しい事業分野の開拓、(2)海外市場への進出、そして、(3)若手経営者の育成(自らの第一線からの引退)である。4年後のいま、約束のすべてが何らかの形で実現されている。中国市場進出は、英国に続く2番目の海外出店であったが、現地の経営は、弱冠33歳の元中国人留学生、林誠に託された。

 <英国店舗網の縮小、上海への出店>
 経営ジャーナリズムやマスメディアから、柳井会長はその意思決定と行動に関して「朝令暮改」を指摘されることが多い。しかしながら、実績を見てみると、2001年の英国出店、2002年の野菜事業進出、2002年11月の社長退任のいずれも、発言のほとんどを約束通り実行に移していることがわかる。結果に対する評価はどうであれ、その意味では、柳井は直球勝負の実直な経営者だと言える。
 海外出店に関しては、まずは英国への出店を試みた。参入対象市場として、業態コンセプトが類似した”MUJI”が一定程度の成功を収めている英国へ進出したのは、簡素なカジュアルウエアを好む英国人の特性を見てのことである。英国のオペレーションを指揮してきたのは、昨年社長に就任したばかりの玉塚元一(当時は常務取締役)であった。玉塚が社長に就任した後は、森田政敏常務取締役が英国の事業運営を引き継いだ。しかし、今年3月には、21店舗あった英国の店舗を5店舗だけ残していったん事業縮小する方針が明らかにされた。
 16店舗閉鎖を決める2ヶ月前(1月7日)、筆者は渋谷の東京本社で柳井会長に英国でのビジネスについてたずねている。既にロンドン周辺に12店舗などの実績があり、さらに3年間で50店舗のネットワーク構築をめざす途上でのことであった。現地のマネジメントチームを雇い、英国流で経営を任せてみた結果が、一時的とはいえ店舗規模の縮小を余儀なくされることになった。
 「小売業は自然体で行う仕事です。現地人にマネジメントを任せてみましたが、日本流のレーバースケジューリングの考え方がうまく適用できません。社会階級(クラス)を前提にした分業文化に、行く手を阻まれた感じです」(柳井会長)

 <中国事業を弱冠33歳の中国人留学生に任せる>
 英国事業に関して、柳井の反省点はふたつである。ひとつは急激な店舗拡張であり、もうひとつは現地マネジメントチームへの過度の依存である。そうした反省を踏まえて、中国事業はファーストリテイリングの企業文化を継承できる人間に任されることになった。英国進出とほぼ同じ時期に、中国の小売事業はファーストリテイリングのマネジメントを7年間経験した人物が担当することが決まっていた。弱冠33歳の取締役、林誠である。
 林については、柳井が沢田副社長(当時、後に退社)とともに将来、ファーストリテイリングの社長にと考えていた幹部候補のうちのひとりであった。中国福建省からの留学生であった林は、1990年に拓殖大学に入学した。皿洗いや居酒屋のバイトで学資を稼ぎながら「国際ビジネス論」を学んでいたが、在学時は第2の父と尊敬する盛岡正憲教授(元伊藤忠商事常務)の演習に所属していた。卒業に際して、林は留学生向け専門求人誌で見かけた募集広告「経営者求む、国籍を問わず」を見て、山口本社まで足を運んだ。
 「この会社は、なぜかキャッチコピーを創るのが当時からうまかったですね。宇部興産ビルの5階で面接を受けた10人のうち6人は合格しましたが、実際に入社したのはわたしひとりでした。まわりは『大学を出て販売員か~』と控え室で言ってましたから」
 恩師である盛岡教授の「自分の判断だけど、まあそんな会社はやめけ」というアドバイスを振り切ってファーストリテイリングに就職した林は、東京西地区の郊外店で「部下の指導では失格の店長」(林談)を経験した。それでも売上げを3億円から6億円に伸ばしたのだから立派なものである、生産部門と商品企画の仕事を担当したあと、1997年に本社で生産と仕入れ部門を担当していた。
 「当時のユニクロ商品は、半分が中国からの輸入品でした。それでも、仕入れのほとんどは商社に任せっきりでした」(林)

 <ひとりで上海事務所を立ち上げる>
 柳井は林のことを、「ひとの心のある人間」と評している。林のそうした資質を見抜いた柳井は、中国人の元留学生を抜擢し、中国の生産管理業務全般を任せることにした。ユニクロの大躍進がはじまる1998年のことである。ちなみに、林は柳井のことを「第3の父親」と呼んで敬愛している。
 林がひとりで上海に移ったのは、翌年4月のことである。はじめての仕事は、現地のオペレーションを一元管理するための準備作業であった。1995年頃からはじまった「ブランドものの排除」と「自社ブランドの確立」は、1998年末にほぼ完了していた。青島、上海、広州周辺にあった約140の協力工場は約70カ所に集約され、品質レベルが格段に向上しはじめていた。現地協力工場は、林の下で最終的には50カ所に集約された。この時期、売上高が倍々ゲームで毎年増えていたこともあって、製造コストが大幅に下がってきた。生産・物流の効率アップが値頃感のある価格に反映され、好循環・高収益を生み出していた。
 この時点で中国は、ファーストリテイリングにとって戦略的な生産拠点として位置づけられていた。そうしたなかで、2000年に、中国本土で小売りチェーンを展開することが決まった。林は2001年1月にいったん生産部門の責任者を離れることになった。半年をかけて、小売り事業の青写真を描くためである。

 <中国小売りビジネスの基本的な考え方>
 事業企画書が作成され、種々の法律的な問題がクリアできる見通しが立った同年7月、中国人を中心とした4人のマネジメントチームが結成された。財務担当は日本人(田中浩志)だったが、あとの3人(林誠、高坂武史、潘 寧)は、日本のユニクロにて実務を叩き込まれてきた新卒の中国人であった。現在、上海事務所は約百人のスタッフを抱えている。半分が日本向けの生産管理担当で、半分が上海の小売り店舗の運営を担当している。林は生産と販売の両方の責任者を兼務している。
 なお、2002年の前半に新体制となった上海事務所は、東京の生産管理部門と上海・広州の現地事務所を統合したものである。商品開発と生産・在庫管理に関する意思決定を迅速にするために、生産に関する情報機能を上海に一元化したものである。到達点として目指しているのは、これまで年間3回だった店頭商品の入れ替えを、年6回のペースで回すことである。定番品の回転を速めることで、店頭を活性化することが主たる目的である。
 林は現在、上海市内の5店舗をじっくりと観察している。早急すぎた英国での店舗展開の反省からか、柳井会長も中国での事業展開については慎重である。
 「環境は国ごとに異なるから、成功のパターンは一定ではありません。とにかくやってみないとわからないので、3年間は実験と考えています」(林)
 しかし、ユニクロが持っている事業価値と基本コンセプトには揺るぎがないとも考えている。その点は柳井も同じである。「中国に持っていくのは、企業文化とユニクロブランド」(柳井)。英国では現地のマネジメントチームに任せて、猛スピードで現地化を推進した。今回はその逆で、オーソドックスで標準的なブランド移転作戦を考えている。
 商品供給、レーバースケジューリング、店舗運営、サービスメニュー管理は、基本的に日本流を通している。価格政策を除くと、ユニクロ方式は一応の受容性があると見られている。ただし、雇用形態は現地の事情にあわせざるを得ない。パートタイマーが使えなかったり、役所の訪問があるので、店長の仕事が日本とは異なってくる。
 林たちのチームには、是非とも打破したいと考えている価値観がある。ひとつめは、 カジュアルに対する中国人の誤解である。かつて日本の消費者がそうであったように、カジュアルウエアは、若者向けで、安っぽくて、だらしがないという偏見を変えたい。2番目は、中国人のグレードに対する偏った価値観である。高中低という価格水準によって、商品の価値が決まるという誤解に対して、安くても良いモノは良いという正当な価値観を定着させたい。最後は、ブランド神話である。中国人は日本人以上に「ロゴマーク」にだまされやすい。新しいファッション文化を提案し、価値のボーダレス化を促進することが林たちの願いである。