『現代のエスプリ』2000年10月号掲載(2000年8月15日作成原稿)
<表現する自分、見られる自分:『モノ・マガジン』の変質>
『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス社)という隔週発行の雑誌がある。1982年の創刊で、若い男性向けに毎号40万部を発売している。電通総研(2000年)の調べによると、男性誌としては、『文芸春秋』に続いて二番目に知名度が高い雑誌だそうである。気が向いたとき、筆者もときどき近くのコンビニで立ち読みをしている。おもしろい記事が載った特集号は、レジでお金を払って購入することもある。
そういえば、『モノ・マガジン』の存在を知ったのは、大手自動車メーカーの若手社員から、レアモノの時計に関するクリッピング記事を見せられたのがきっかけであった。80年代の終わりのことである。そのころすでに、同誌は出版界ではメジャーな存在になっていたはずである。というのは、T社の優秀な社員だったその彼に、「えっ、先生!この雑誌、とってもメジャーなんですよ。知らないんですか?」とびっくりされたのを覚えているからである。そんなわけで、『モノ・マガジン』に対するわたしの第一連想は、「時計」と「ジーンズ」である。
最近の8月16日/9月2日合併号では、定番のジーンズ特集「オリジナリティ模索の時代:ジーパン・イン・ジャパン」が組まれていた。土井輝彦編集長曰く。「1982年の創刊時、まだ今ほどモノがあり余っていなかったときに、一種の情報誌としてスタートしました。ところが、創刊から19年の歳月を経て、日本は世界中でいちばんモノが溢れている場所に変わってしまいましたね」
人々の欲望の形が変わり、読者の意識が変化するとともに、雑誌の位置づけも変わっていかざるを得なかった。バイヤーズガイドの役割を果たしていた80年代の誌面は、いまや伝説となったブランド”リーバイス501”や”エドウイン503”のモノとしての由緒正しさを読者に伝えるだけで充分だった。元祖ブランドジーンズは、「エデンの東」の主演男優ジェームス・ディーンに対する憧憬(あこがれ)の象徴であった。同時にまた、ちょっとやそっとでは壊れそうにない米国人のような頑丈さ(タフさ)が、メイド・イン・アメリのモノ商品としての本質であった。ブランドの意味は、機能性(手触り)と情緒性(愛着)だけでほぼ完全に表現することができたのである。
今回の特集には、「ウチのジーンズはいてます。」というコーナーが設けられている。各社のブランドを紹介するのは、メーカーのデザイナーさんと小売店の店長さん、総勢21人である。一人ひとりがお気に入りのジーンズをはいて、アルバムの写真におさまっている。写真の左下には、所属の店名(会社名)、ジーンズの型番、購入後の経過年数、購入価格、入手可能な店舗の電話番号が記入されている。
文章の説明は、愛用のジーパンだけにとどまらない。指輪やピアス、Tシャツやベルトなど、彼が身につけている小物類について、値段やブランド名が付記されている。店長さん自身が書いた思われるキャプションには、着用しているジーンズのはきごごち、ジーンズにまつわるエピソードなどが事細かに記録されている。
そう・・・主役はジーンズではない。ヴィンテージブランドを着用している本人たちである。雑誌に登場する人物たちのライフスタイルや仕事内容など、ブランドが身につけられている生活背景を紹介することに、『モノ・マガジン』の活字媒体としての役割が変質しつつある。そのとき、ブランドは単独で商品として機能するのではなく、自己を表現するための部品(ギア)になる。ブランドは自分を世間に露出するための手段であり、見られることを前提に”マーク”は購入される。だから、付属品であるはずのバックルやファスナー、ボタンやエンブレムに対して、使い手はそれ相応のこだわりを求める。買い手は、モノの由来を詳しく知りたがる。全体(ブランド)と同じくらいに、あるいは、それ以上に部品の詳細(ディテール)が大切なのである。
演技(パフォーマンス)のための小道具(ツール)。それが、ブランドの現代的な意味である。カリフォルニア大学バークレイ校の元教授デービッド・アーカーが、その著書『ブランド優位の戦略』(ダイヤモンド社)において、「機能的ベネフィット」と「情緒的ベネフィット」に対置して、「自己表現ベネフィット」と呼んだブランドの側面である(*1)。
<男の子たちの孤高:「ナイキ、ジャスト・ドゥ・イット」>
ブランドの持つ意味が変容する兆しを見せはじめたのは、80年代前半に「Hanaka族」が登場してからだろうか。海外旅行でブランド品を買い漁るショッピング文化は、『Hanako』的な情報誌を必要とする消費世界へと道を拓いたことになる。ヴィトンやセリーヌのバッグが、女子大生やOLたちの存在の証し(アイデンティティ)になったのは、そのすぐ後のことである。旅行とモノが雑誌とセットとなったこの時点では、しかしながら、自己を主体的に表出していくという姿勢において、若い女性たちが築いた消費文化はまだ底の浅いものであった。ほぼ同時期に発売された『モノ・マガジン』が、同年代の男性(25歳~40歳)に向けて放ったメッセージとは対照的である。いつの時代でも、遊び道具(ガジェット)と戯れる男たちは孤独な存在である。
ブランドについて世界中でほぼ同時に進行していた意味の深化は、やがて大きな転換点を迎えることになる。日本ではバブル前夜、欧米諸国では経済がボトムから抜け出そうともがき苦しんでいた80年代の半ばである。機能訴求を中心に広告作品を編集していた米国のマスメディアが、ブランドを神秘化する広告を制作するようになった。その嚆矢は、ナイキの最高経営者フィル・ナイトが、後にNBA(全米バスケットボール協会)のスタープレイヤーになるマイケル・ジョーダンを、同社の製品広告に起用したことである。
将来を期待されてはいたものの、当時のジョーダンはほぼ無名に近い選手だった。1984年、業績の低迷に苦しんでいたナイキの経営に再度復帰したフィル・ナイトは、ストックオプションを含んだ年間契約金100万ドル(約1億円)で、ジョーダンと5年間の専属契約を交わした。『フォーチュン誌』は、ナイトのこの決断を「業績悪化の中で下した最悪のミステイクス」と呼んで非難した(*2)。
マイケル・ジョーダンは、数年を経ることなく、NBA史上で最強のバスケットボールプレイヤーに成長した。所属チームのシカゴ・ブルズは、ジョーダンの華麗なプレイの貢献により、3年連続を2回合計で6回、ナショナル・チャンピオンの栄光に輝くことになった。ジョーダン自身は、再復帰後の戦績を含めて9回得点王の座に就いた。NBAの歴史において前人未踏の記録は、今後も破られることはないだろう。
フィル・ナイトの賭(ギャンブル)は、復活したナイキの業績によって報われることになった。ナイト復帰後の1986年、ナイキの売上高は10億ドル(約1000億円)を超えた。しかし、ナイキとジョーダンの成功物語は、それだけにとどまらない。ジョーダンは、バスケットボール選手として優れた能力を持っていただけでない。誰にでも愛され尊敬される人柄を兼ね備えていた。ジョーダンの個人的な資質(パーソナリティ)は、ナイキ製品に注入される特性としてうってつけだった。
70年代にナイキの独走を助けた「ワッフルソール」の技術は、80年代に入るとその勢いを失っていた。フィットネス市場におけるリーボックの追撃、アスリーツ市場でのアディダスの復活劇があって、ナイキとしてはワッフル底に代わる技術的な突破口が欲しかった。そこに登場したのが、「エア・クッション」の技術であった。靴底の空洞にガスを封入してシューズの接地弾力性を高めた「エア技術」は、NASA(米国航空宇宙局)によって1974年に開発されていた旧くて新しい技術だった。
特許を保有していたナイキのコミュニケーションチームは、エアテクノロジーの物理的な機能を伝えるために、パフォーマンスが最高に発揮されるシーンを広告で表現するアプローチを選択した。ナイキが86年にはじめてオンエアしたテレビCFで、リングに向けてダンク・シュートを放つジョーダンが宙に舞う。そのとき、一緒に飛翔したシューズのスリットから、靴底にエアクッションが見える。新しいブランディング手法として発案された「技術のブランド化」(エア・テクノロジー)と「技術の視覚化」(シースルー表現)である。ジョーダンの名前を冠した”エア・ジョーダン”は、爆発的なヒットとなった。
ジョーダンがナイキ製品に注入したブランドイメージ(クールでヒップ)は、「ジャスト・ドゥ・イット」のコマーシャル放映で最高潮に達した。ホイールチェア・レイサーのクレイグ・ブランチェットがナイキの広告にはじめて起用されたのは、1988年のことである。場面設定は、激しい戦いの熱狂が退いていく試合後のスタヂアム。チームを離れて一人になったアスリートが、うす暗い闇を背景に静かにロッカールームに引きあげてくる。白地で3語のフレーズが字幕に浮かび上がる。「ジャスト・ドゥ・イット(Just do it!)」(よくやったね!)。寡黙な男たちの達成感と虚脱感。
<女の子たちのパウダールーム:ドラッグストア”マツモトキヨシ”>
男の子たちが、激しい運動の後に滴り落ちてくる汗をタオルでふきながら、「ロッカールーム」で胸の鼓動を鎮めていたころ、若い女の子たちは、新しい興味の対象を探し当てていた。女子高生たちの「パウダールーム」、ドラッグストアのマツモトキヨシである。
創業経営者の初代松本清は、松戸市の元名物市長として全国ではじめて「すぐやる課」を創設するなど、しばしばマスコミをにぎわす地方政治家であった。首都圏ではそこそこに知名度は高かったが、小売企業としてのマツモトキヨシはある時期までは地味な存在であった。千葉県北東部を中心にスーパーマーケットや薬局など約100店舗を展開していたマツモトキヨシが、”マツキヨ”のニックネームで親しまれるようになったのは、1987年に上野アメ横に出店してからのことである。(*3)
副社長の松本南海雄(なみお)に開発担当者から持ち込まれた物件は、廃業したパチンコ店の4階建てのビルだった。賃借の条件は、全フロアを一括して借りあげること。ふつう薬局はビルの一階に店を構える。百貨店でも2階に化粧品売場のコーナーを持っていくことはしない。3階から上は事務所スペースと在庫の保管場所にあてるにしても、2階の売場をどのように利用するかが課題だった。苦肉の策として考えついたのが、化粧品とファンシーグッズを2階に配置し、階段の壁面を利用してヘアケア商品からボディ商品まで順番に陳列していく「階段陳列」の手法だった。(*4)
2階まで上がってきてくれたお客さんには、化粧品や小物類をディスカウントすることにした。それだけではない。メーカーのサンプル品を使って、口紅やマニキュアなどを自由に試してもらえるコーナーを設けることにした。「テスターコーナー」のアイデアが、お小遣いをあまり持っていない女子高生のスイートスポットをヒットした。学校帰りにマツキヨにふらりと立ち寄って、それまではお母さんやお姉さんの化粧箱から失敬していたマニキュアや口紅などを自由に試してみることができる。開店直後から、思いもかけずに口コミが広がって、若い女性客がうなぎのぼりに増えていった。偶然ではあったが、女子高生がお化粧を自由に楽しむことができる文化を、マツモトキヨシが創造したことになる。
1990年代に入ってからのマツモトキヨシは、都心ターミナル駅周辺への出店を加速していった。1992年の池袋東口店を皮切りに、95年の渋谷店、97年の六本木店、新宿東口店、吉祥寺サンロード店など、都心部でのドラッグストアの出店が続いた。翌98年に、銀座、有楽町、原宿竹下通りに進出したことで、松戸ローカルだったマツモトキヨシの企業イメージは完全に払拭された。
若い子が集まる賑わいのある場所という店舗イメージが定着したおかげで、家庭用品や化粧品のメーカーが新製品のテスト販売と情報収集のためにマツモトキヨシを利用するようになった。新しく発売される商品はいち早くマツモトキヨシの店頭に並んだ。バスケットに山積みされた試供品が、店頭で無料配布された。「何かおもしろい商品がありそうだから、とりあえずマツキヨに寄ってみよう」という期待感を抱いて、消費者はマツモトキヨシを訪れるようになった。
都心への積極的な出店と口コミの効果で、マツモトキヨシの名前は女子高生や若い女性の間ではすでによく知られていた。マツキヨ人気を決定的にしたのは、強烈なインパクトのTVコマーシャルだった。テレビ広告を企画制作したのは、広告代理店・電通の田島恵司CMプランナー。「ジャスト・ドゥ・イット」を制作したクリエーティブ・ディレクターのリー・スパイクと同様に、若き無頼派(当時28歳)で通っていた田島は、その年のCM大賞を総なめにした話題のCMに、創業者の名前でもある「マツモトキヨシ」というユニークな社名を利用することにした。
シリーズ広告のテーマは、女子高生やOLがいちばん関心を寄せている「男の子」と「恋愛」。CMのシーンには、彼らと同じ世代の若いカップルを登場させた。マツモトキヨシという架空の男性を、恋のライバルに仕立てたドラマのなかで、男性のココロを翻弄する女性役には、タレントの藤崎奈々子を抜擢した(「若い二人編」)。1996年4月1日から放映されたCMには、もうひとつのパターンがあった。大人のカップル(馬野裕朗と上白戸なお子)が登場する酒場のシーンである。ここでも、架空の男性マツモトキヨシが、二人の恋の気分を揺り動かす役割を担っている。「時代の雰囲気は、共感ではなく、気分をくすぐることである」(田島CMプランナー)。
一連の作品の中で、田島は時代を駆け抜ける少女たちの気分をたくみに取り込んでいる。覚えやすいメロディーをCMの中に挿入するという路線で話題になった作品が、山口もえを起用した「欲しがるマミちゃん編」である(98年)。何でも欲しがるマミちゃんの山口もえは、友人から彼氏を奪って、(品揃え豊かなマツモトキヨシの)商品に見立てた男の子たちを、つぎつぎにショッピングバスケットの中に放り込んでしまう。いまどきの若い子の「ちゃっかり発想」に、思わずにやりと苦笑させられてしまう。男の子(商品)はいつでも取り替えがきく部品であり、主演女優の自分を引き立ててくれる脇役である。
<価格の発見:老いも若きも、家族揃って”ユニクロ”>
日本を訪れた欧米人がまず驚くのは、日本の若者たちが高価なブランド品を身につけていることである。とりわけ階級社会のヨーロッパでは、ブランドは特定の社会階層と年齢グループに属するものである。英国貴族のブランドである”バーバリー”が中高生の定番になったり、アルバイト収入に頼る大学生が50万円以上もする”ロレックス”の腕時計を身につけていることなど、彼らの常識からは考えもつかないことである。
あるとき、アメリカ人の友人夫婦に真顔でたずねられたことがある。「高価なブランド品を購入するために、日本では多くの女子学生が売春(援助交際)をしているのですって?」 欧米の若者は、身の丈(収入)にあわせて慎ましやかに暮らしを立てている。実用衣料のブランドである”ギャップ”や”ヘインズ”が、北米で成功した理由である。
ただし、甘えと拝金主義に冒された20年を経験し、未曾有の若者文化に浸されてきた現代日本の消費文化がしだいに成熟していく予兆がある。ギャップの店舗コンセプトと商品開発の手法に習って、カジュアル衣料で急速に業績を伸ばしている”ユニクロ”の躍進ぶりに、筆者はある種の救いを見る思いがする。
ユニクロを展開する「ファーストリテイリング」は、山口県宇部市に本社があるファッション衣料の製造小売業である。1994年の株式店頭公開後も、店構えにせよ品揃えにせよ、なんとなく田舎くささを感じさせる地方出身企業であった。ところが、1998年に原宿に旗艦店を出店してから、それまでとは見ちがえるほどの大きな変身を遂げた。モデル店舗のプレゼンスとテレビ広告の大量投入で知名度が高まり、全国区レベルの評判を獲得するというお馴染みのパターンは、マツモトキヨシの事例と瓜二つである。(*5)
ユニクロのビジネス展開は、柳井正という卓越した経営者の存在を抜きにしては語れない。最大の成功要因は、「ノンエイジ」「ユニセックス」「ノーロゴ」というブランド戦略に集約できる。男女を問わずあらゆる年齢層を対象顧客として、ファッションの部品を販売すること。それが、長州商人の柳井が発見したマーチャンダイジングの基本コンセプトであった。ユニクロの商品には、ロゴマークが入っていない。無印であることは、組み合わせる相手を選ばないということである。だから、他のどのような部品とのコーディネーションをもごく自然に感じさせる。身につける人の年齢・性別を問わないことは、家族や恋人との間での使い回しを可能にする。
米国流のマーケティングは、客層を絞り込んで特定の市場に特化すること(フォーカス)を強調してきた。(*6)柳井の発想は、マーケティング理論家の教えとはまったく逆である。タグシール以外には、外から見えるところに”UNIQLO”のロゴマークを入れないブランド政策などは、伝統的なブランディングの方法に反している。ユニークなノンブランディングの手法は、もしかすると、セゾングループの”無印良品”を真似たものかもしれない。(*7)
実用衣料品にセグメンテーションとブランディングは不要であると割り切ったことで、メリットをいちばん大きく享受しているのは、ユニクロ自身である。昨年の冬には、全国で800万枚のフリースを販売した。今年の夏は、2500万枚のTシャツを売り切る予定でいる。商品の販売効率の高さは、海外調達によるスケールメリットを最大限に利用することを可能にする。単品の発注量が通常のビジネスで考えられる規模をはるかに超えることで、ほぼすべての商品の価格をドラスティックに引き下げることができる。低価格販売が数量効果を生み、それがまた商品調達におけるスケールメリットを生み出す。この好循環がユニクロの高成長と高収益を支えている。
日本の消費者は、ユニクロの商品を試してみることで、おそらく戦後はじめて「価格」を発見することになった。それも、安かろう悪かろうのディスカウント商法ではなく、品質感のともなった「安さ」との出会いである。いま日本全国を席巻しつつある「ユニクロ旋風」は、高価なブランド品を背伸びして購入することもないという消費者態度を醸成しつつあるように思う。
日本人の消費者は、静かに暮らしたいと思うようになっている。やたらとたくさんモノを買い込まないこと。稼ぎとライフスタイルに相応しい、自分なりの落ち着いた生活を実現すること。良いものであれば、リサイクル品や中古品であってもかまわない。むしろ、長く使い込まれたモノにこそ、商品としての値打ちがある。ネット上でもっとも取引が活発なのは、アンティーク時計やヴィンテージカーなど、中古ブランド品の転売である。
ある特定の時代に一国の経済が繁栄した後で、たくさんの構造物が建築され、後世の人々に残される。かつては商品だった多くの芸術品は、時間を経て価値あるモノとして未来に伝えられる。現代の産業が生み出しているブランド商品は、50年後、100年後の人々にどのような価値と意味を伝えることができるのだろうか? 現代の日本が、欧米やアジアの人たちに対して、彼らが日常生活の場面で演じる劇(ドラマ)を楽しむために、舞台を演出する小道具(ブランド)をうまく準備できるだろうか? 自動車と電機製品以外に、日本発でオリジナリティのあるブランドが海外移転に成功したという事例は、いくつかの例外を除いてほとんど見あたらない。(*8)
<引用文献>
(1)デービッド・A・アーカー/陶山他訳(1998)『競争優位のブランド戦略』ダイヤモンド社。
(2)David A. Aaker and Eric Joachimsthaler, (2000) ‘Brand Leadership,’ Free Press.
(3)松本かづな(1998)『わたしがマツモトキヨシです』サンマーク出版。
(4)小川孔輔(1998)「続・当世ブランド物語(3)(4):マツモトキヨシ」『チェーンストアエイジ』8月15日号、9月15日号、ダイヤモンドフリードマン社。
(5)小川孔輔(2000)「続・当世ブランド物語(12)(13):ユニクロ」『チェーンストアエイジ』2月15日号、3月15日号、ダイヤモンドフリードマン社。
(6)フィリップ・コトラー、ゲーリー・アームストロング/和田他訳(1998)『マーケティング原理:原書第?版』ダイヤモンド社。
(7)小川孔輔(1995)「ブランドもコミュニケーションで差別化される時代:無印良品」『宣伝会議』
(8)林広茂(1999)『国境を超えたマーケティングの移転』同文館出版。
<参考文献>
(1)小川孔輔(1994)『ブランド戦略の実際』日経文庫。
(2)小川孔輔(1999)『当世ブランド物語』誠文堂新光社。