【柴又日誌】#214:父の終戦@八丈島(昭和20年)

 昭和20年8月6日と9日、広島と長崎に原爆が投下された。3月10日の東京大空襲で、東京下町はすでに焼け野原になっていた。日本が連合軍に無条件降伏をした8月15日は、今年の夏のように猛暑だったらしい。わが父親(小川久)は、敗戦間際に弘前の連隊から輸送船で八丈島に送られていた。わたしは、だから、死ぬ前に一度は八丈島を訪れてみたいと思っている。
    
 そんな昔のことを思い出したのは、昨日、次男の真継たち家族4人が、1泊2日の「夏休み八丈島弾丸ツアー」から戻って来たからだ。台風が島を直撃しなかったので、フライトも宿もキャンセルする必要がなかったらしい。
 次男たち夫婦は、海岸でシュノーケリングを楽しんできたようだ。孫の穂高と夏穂は、「ウミガメを見た!」とおお騒ぎをしていた。楽しい夏休みの一コマを、3階から1階まで降りて、わたしたち夫婦に報告に来たのだった。
   
 ところで、久(ひさし)じいさんの存在を、次男の真継は知らない。長男の由が生まれた直後に、わが父は亡くなっているからだ。享年60歳(1981年10月20日没)。44年前のことである。父が亡くなった日は、わたしの誕生日の3日前だった。 
 父親は優秀な通信兵だったらしい。自分でそう言っていたのだから、間違いはないのだろう。「行先が八丈島ではなく、もしかして硫黄島だったとしたら」と父はよく話していた(その可能性もあったらしい)。日本軍は硫黄島で全滅したから、もしもが起こっていれば、わたしも真継も由もこの世には存在していない。
 八丈島に駐屯していたわが通信兵は、終戦に至る沖縄戦や無条件降伏の信号を大本営と交信していたようだ。今ならば考えられないような惨状の中を、かろうじて生き延びてきたひとりではある。だから、わたしたちがここにいる。歴史のたらればだが、真継や穂高、夏穂も、実はこの世にはいないかもしれないからだ。
 
 「トツー、ツー、トト、ツー」。
 親父のいつもの口真似である。新米の通信兵が、八丈島で打刻していたモールス信号の意味は教えてくれなかった。ただし、その期間はごく短かかったはずだ。弘前の連隊から八丈島に移送されたのは、昭和18年から19年にかけてのことだろう。父は、日本が早晩この戦争に負けるだろうことを知っていたようだ。
 秋田の家の押し入れには、軍隊のカーキ色の毛布が敷いてあった。父の遺品であるが、もう処分されているだろう。酒好きだった久さんは、子供たちにその毛布を持たせながら、グラマン戦闘機に機銃掃射を受ける話をするのが好きだった。
 「タタ、タタ、タタ、タン、タンタン」。
 甲高い響きの機銃掃射の音が、いまでも耳に残っている。自分の運命が一瞬で反転していたかもしれないからだ。真継たち家族がシュノーケルで潜っていた海岸まで、父は仲間と魚を獲りに行ってグラマンに遭遇したらしい。笑って話してはいたが、本当は恐怖の一瞬だったはずだ。

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