片桐敏美さんは、わたしと同じ1951年生まれ。信州伊那谷でアルストロメリアなどの球根切り花や宿根草、草花類などを栽培している。日本ではじめてアルストロメリアの栽培を始めた5人の中のひとりである。
片桐さんは、JFMAの初期からの会員でもある。研究者と生産者、選んだ職業はまったく異なるものの、同世代の大切な友人のひとりだ。岐阜セントラルローズの大西隆さん、香川の三豊園芸の前川茂さんとともに、JFMA会員で「うさぎさんチーム」(小川の命名)のメンバーである。
うさぎさん(チーム)は、性格的に優しい「夢追い人」だ。しかし、内に秘めたパワーと根性は人一倍強い。そして、5月の生まれ片桐さんは、10月生まれのわたしよりちょっとだけ兄貴分にあたる。
片桐さんからいただいたご自身のプロフィール(紙ベース)を変換して、ブログの一番下に添付する。PDFからワードに変換したものなので、編集が必要な部分もある。いずれ『JFMAニュース』(2025年6月号と7月号)の「トップインタビュー」で、片桐さんのお話が掲載されることになっている。
一昨日(5月20日)、事務局の拝野さんと新宿バスターミナルから、片道4時間を掛けて信州伊那谷にある片桐花卉園を訪問した。きっかけは、本ブログでも紹介した「独り言」である(【JFMA会員からの手紙】上伊那の花栽培者、片桐敏美さんの独り言 | 小川先生 のウェブサイト)。
わたしに宛てた手紙を読んで、ブログで紹介したのち、片桐さんに連絡を取らせていただいた。「トップインタビュー」でお話を伺いたいと思ったからだ。6月に伊那谷を訪問することにしたが、わたしが執筆で忙しくなり、いったんインタビューは立ち消えになってしまった。
ほぼ一年が経過して、書籍の出版も一段落ついた。そのタイミングで片桐さんの農園を訪問することにした。しかし、一昨日はめったにやらない日帰りのバス旅行になった。行きも帰りも、事故渋滞(往路)と工事渋滞(帰路)で往生した。
さて、拝野さん経由で事前に送付しておいた質問項目は、以下の8点だった。
1.就農まで
2.千葉の三羽ガラス、小森谷さん,三宅さんたちとの交流
3.50歳まで取り組んできたこと
4.jfmaでの交流
5.長野の上伊那で花を作ることについての片桐さんの思い
6.日本の農業 特に花栽培の未来
7.後継者の仕事ぶりについて
8.その他、独り言に書いたことの背景
おそらく、ブログ末に添付した<片桐敏美さん、プロフィール>は、この質問項目に合わせて、わざわざ訪問前に片桐さんが作成してくださったものなのだろう。ありがたいことだが、インタビューは、この通りで進行するわけでもない。
一番ちがっていたのは、7番目の項目(後継者の仕事ぶり)に差し掛かったところで、片桐さんが圃場にいる息子(鏡仁)さんに電話をしたことだった。おかげさまで、事業承継が上手くいって、ふたつのルートから片桐花卉園の花が、全国の市場や花屋さんに届いていることが分かった。
息子さんが担当している「花屋さん直送ルート 」と、従来からある「市場ルート」である。この辺の事情は、『JFMAニュース』のインタビュー記事をご覧いただきたい。文章を読めば、第6項目(日本の農業 特に花栽培の未来)についての片桐さんの立場が良くわかるだろう。
優秀な後継者に恵まれることで、「父親が歩んできた道が輝いて見える」ことになる。この辺の事情は、ミヨシグループ(種苗会社)の三好正一社長などの事業承継と相通じるところがある。早期に後継者にビジネスの主導権を委ねること。ポイントは、この一点に尽きるのではないか。片桐さんが、インタビューの途中で、息子さんを呼んだ気持ちがよくわかる気がする。
さて、インタビューではどのように片桐さんをヒアリングできたのかは、拝野さんが編集する記事に任せることにする。ここで書き残しておきたいことがある。インタビューで明示的に触れることができなかったポイントである。
そもそも片桐さんが、アルストロメリアの花束に添えて、わざわざ会長のわたしに手紙を書いてくれたのはなぜだったのか? そのことについてである。
インタビューの最後(8項目)が、「その他 独り言に書いたことの背景」だった。しかし、独り言の内容そのものより、片桐さんの発言の背景を尋ねたかったのだった。残念ながら、息子さんを呼んだので、この問いに対する答えにじっくり耳を傾ける時間がなくなってしまった。
インタビューの予定終了時刻の15時15分。新宿駅行きの高速バスは、15時42分に「飯島停留所」に到着する。時間が迫っている。あとは、わたしが自身が片桐さんの発言の意図を読み取るしかない。そう思って、トヨタ車(ノア)を運転する片桐さんを見ていた。
わたしの推測である。片桐さんの信条は、「えんどれす・どりーむ」(終わりなき夢)である。片桐さんの口から出た言葉でいえば、「死ぬまでにどれだけ多くの花が咲くのを見ることができるのか?」。それは、もっと多くの新しい花を咲かせて、それを市場で販売することだろう。
留まるところを知らず、夢を追いかけていくことだ。わたし自身は、ともすれば中途で折れてしまいそうになる夢がある。片桐さんは、それをいまだに追い求めているところがスゴイことだと思う。
一方で、片桐さんが「独り言」で書いているように、信州の上伊那地区でも農業に従事する人はいなくなりかけている。日本全国であまねく、田んぼも畑も耕作放棄地だらけである。ご自分のように、花の栽培で後継者はまだいるが、田んぼや畑で野菜や果樹や米を作る人は高齢化で消えていく。
田んぼや畑は山に戻すしかない。耕作放棄地は、100年前のように野山に返っていく。自然豊かな信州伊那谷でも、その動きは加速している。片桐さん自身のエンドレスドリームと、周囲の田畑から耕作者がいなくなってしまう現実がそこにある。
「先生、食べるものが無くなる日が、確実に目の前に迫っていますよ」(片桐さん)。会津の山奥でカスミソウと草花類を生産している菅家博昭さん(JFMA理事)も同じことを言っていた。いまのいまでも、米は高値で取引されている。しかし、そもそも米が不足するどころか、米が食べられなくなる時代が来るのかもしれない。
都会で暮らしているわれわれは、食料品の高値に文句を言っている。そうなのだが、作り手を失ってしまえば、作物がこれからどれだけ出てくるのだろう。茨城県土浦の有機農家、久松達央さんが言っていた。日本の農業では、従来からの品質にこだわる「フルセットの農業」(高品質・多品種少量生産)は、もはやできなくなってしまうだろう、と。
<片桐敏美さん、プロフィール>
信州 片桐花弁園「片桐敏美」
ご先祖さん
昭和8年 二十世紀梨、リンゴ、定植、地域に広める。(4代前)お蚕の暴落を見て、果樹に目先を向けた模様。上伊那史人物遍に掲載 片桐初太郎
現在、公徳碑、碑が立っている、農林大臣が見えたそうです。
敏美本人 1951年5月31日生まれ
<花の生産者になる>
1970年 県農業専門学園似て2年間
(専門学園在籍中茅野市米沢似て(りんどう) 1年間研修)
1972年 りんどう生産開始 果樹+水田+花弁栽培、開始
七久保農協にて出荷開始、茅野よりリンドり苗、ひめゆり球根導入、
竹島百合嗚子らん導入新潟堀之内より (路地20アール)
1973年 東京大久保生花市場にて3週間研修
近くにみよし種苗、現在のミヨシの前進かも 大久保駅近く
1974年 東京大久保 フローリスト野上にて年末3週間バイト兼研修(新宿駅ステイションにて販売)
新鉄砲ユリの産地としては有名である七久保、リンドウと共に新鉄砲ユリの生産
東北方面でのリンドウの生産増加が気になり(茅野市米沢で研修していた岩手の友人岩持氏へ)
東北産地視察。リンドウ栽培に適した場所と分かり、今後東北の産地化が進むと予見
(リンドウ促成パイプハウス建設1 5 0坪)
<千葉の三羽烏の影響>
1975年 農耕と園芸、その他、雑誌の産地紹介を見て、今後伸びそうな花の産地など
頻繁に花の探索を全国繰り返す。農耕と園芸に、アスチルベという花に興味を抱き
千葉 小森谷ナーセリーの情報だけで小森谷ナーセリーの温室までたどり着く。(奇跡)
(◎小森谷ナーセリー、主に小球根の生産者で、アマリリス、ダイヤモンドリリーなど
多品種の生産をして、現在はアマリリスでは世界的に有名な育種家、
栽培した品種は14000種類だそうで、平成26年 「球根植物」専門誌を出版)
小森谷ナーセリーを知ることが出来 我が園の栽培品種の生産方法が大きく転換を始めます
1976年 アスチルベ導入、ダイヤモンドリリー導入 小森谷ナーセリーより
リンドウ、新鉄砲ユリ生産中止
小森谷ナーセリーより情報としてオランダで、アルストロメリアとデルフィニウムという花が
オランダの花市場へ出始めたそうだ。
どのような花かも分からずに興味を抱く、日本の大小種苗会社よりカタログを取り寄せる。
デルフィニウムが、大阪平和園のみにガーデン用として種子発見
アルストロメリアは、茂原市の三宅さん(小森谷さんの弟さん)が市場ヘアルストロメリア
(リグツ系)を出荷していると聞き訪ねる。原種系のリグツ種で日本人このみする
パステル調色合いでした。
(◎三宅花弁園、小森谷さんの実の弟、市場では特殊な部類の切り花を栽培、
三宅花弁園で初めてデルフィニウムの花を見る、高さ2メートルすごい、
美しい上に、現在も有名な三宅花弁園です)
「1976年時点で全国に4名の生産者がいた。千葉・三宅氏、長野小布施・富岡氏、
松代・中沢氏、大阪・清水氏」 私達(仲間3人)で5番目の生産となる、
我が園たちが専業化したのは最初
1977年 3月31日結婚(26歳?)
<アルストロメリアの栽培開始>
1977年 三宅さんより アルストロメリア(リグツ系)導入 出荷開始
長野県小布施にて、アルストロメリアの生産をしている方の情報を
京大の名誉教授(塚本洋太郎氏)より入手
1978年 県経済連在籍
小布施町、富岡氏見学 アルストロメリア(オオアンチアカ系の品種)タイカーベロー導入決定
(1ロット100万円にて、3名で分配)
(◎ 富岡氏 その時点経済連花担当職員、芍薬の産地など多くの品種を長野県に導入
現在は東印園芸で個人活躍。
1979年 町の姉妹都市であるブラジル、サンパウロ市の隣フェラース市へ11月から1か月間
1979年 デルフィニウム、アルストロメリア、ともにすごい反響、
(伊南農協は関西の花市場が多く、千葉の三宅花卉園とは重ならずその為、
どの花市場も 初入荷の為値段は、最高単価、デルフィニウム1本2300円、
アルストロメリア1本500円以上、市場単価情報が伊那経済連に入ってくるため、
伊那の各地より見学者が多数。アルストロメリアの上伊那での産地化の始まりでした。
JA七久保地区でガーベラ栽培始まる。オランダの品種7~8年で終了(高冷地向きではない)
1979年 グロリオサ(ロスチャイルド、ルテア) フリチラリア(インペリアルス)栽培
1980年 デルフィニウムは切り花本数が少ないので生産を中止。
(長野方面より見学者有り)全国各地に生産が広がりました。
種苗会社での育種も進んだため現在は、アロストメリアより生産面積は多い。
グロリオサ、ロスチャイルド、ルテア(市場単価1本1500円まで有り)
7~8年で中止 現在は高知県が主産地
京都生花市場にて12月、2週間市場にて研修
オランダよりアルストロメリアリ、パテント種、JA箕輪(福花園より)、
JA伊那、JA伊南経済連より導入
(*小川のコメント 1980年がもっとも記述が多い → 取り組みが活発だった?)
わが園ではアルストロメリアの原種の導入を始める
原種3 0種、南米には約100種の原種在り 育種に利用されている原種は少ない。
アルストロメリアの育種を手掛ける。
◎平尾秀一さんの、球根植物(専門書)に出会う。お宅に伺う
イギリス、アメリカの趣味の会入会。海外種苗会社カタログ取り寄せ(平尾さんからの教え)
特にイギリス、トンプソン&モリガン社が面白い品種を扱う。
土地基盤事業により、栽培面積縮小。
1982年 クリスマスローズ導入 広島農園より オリエンタルハイブリット種、
アルストロメリアを中心に小球根性切り花、品種年2作栽培が主力に(春、秋 栽培)
鉄骨ガラス温室230坪建設、バイプハウスから変更、大型温室への更新開始。
<導入した品種リスト>1982~2000年
切り花球根類
リュウココリーネ、ベッセラエレガンス、ミラーヒフロラ、イキシアビリフローラ、
ラベイロージア、エルムレス、イキシオリリオン、コルチカム、力ランコエ、ブルースター、
サンダーソニア、アマクリナムドシーハンニバル、リコリス(オオレア)、
キルタンサスマッケニー、 チャスマンテ、ガルトニア(サマーヒヤシンス)、アルプ力、
力ルコルタス、スプレケリア、オーニゾガラム(シルソイデス)、グラジオラス(トリステス)、
ハイブリッドユリ;ルレーブ、アリウムシカラム、チューリップ、シルソイデス他多種
宿根類
ペンステモン、アコニタム、アンチューサ、 アニコザンサス(カンガルーポウ)、
アスクレピアス(風船とわた)、しらん、キキョり、エリンジムムアルピナム、ブルーデイジー、
ガイラルリア、ヒメヒマリリ(イシイモ)、ヘリクリサム、ジャーマンアイリス、トリトマ、
エーデルワイス、スターチス、ルドベキア、スクキス、ホトトキ’ス、ベロニカ、他、多種、
以後、毎年色々な品種の導入 生産期間は2~3、
<個人出荷者になる>
1983年 JA伊南より離れ、個人出荷になる。
上伊那花卉生産者会議の会員になる
(◎上伊那花丼生産者会議、上伊那郡各地の個人の集まり多い時に98名の会員が在籍
生産最出荷箱17万ケース 生産グループ)
1985年 JNフラワーソサエティー設立(特殊品種栽培者グループ)
元経済連担当、会長に富岡氏、県内約50名参加
ブルースター、ブプレリウム、日本初栽培、その他多種提供される
1988年 海外の花1300品種ほど種まき(群馬根岸さんより、班入り木類では有名)
1990年 『農耕と園芸』に片桐花弁園が特集記事で掲載される。
この頃までに約1000品種の花を市場へ出荷。
アスパラスライマックス栽培開始 ブプレリウム2年間栽培後、種子を横浜雙市場の方へ
<日本アルストロメリア研究会設立>
1993年 鉄骨ガラス温室600坪新設
1994年 アルストロメリア パテント申請4種
1997年 日本アルストロメリア研究会設立
(発起人4名にて)顧問に大川清(静岡大学教授)、
大平氏(元、普及員)初代 私が 代表者になる 岩手~佐賀県まで7県50名にて
長野県、田中知事の時、日本アルストロメリア研究会として
宣伝目的に県庁知事室へ、毎月6ヶ月間アルストロメリアの花を送る
現在、コロナなどで休眠状態の研究会(代表は継続)
1998年 『はなみどり』園芸紙 育種家探訪録に出る(2000年に廃刊)
小布施、富岡氏。千葉小森谷ナーセリーも掲載された園芸紙
2000年 千葉幕張メッセで行われているIFEXの主催グループ
JFMA(日本フローラルマーケティング協会)に入会
稲作、全面的に終了
<事業承継の準備>
2001年 鉄骨硬質ビニール温室 230坪建設(パイプハウスより建替え)
2003年 鉄骨ガラス温室建設(パイプハウスからの建て替え)
400坪ガラス温室建設、 面積1500坪に
2004年 鏡仁(次男さん)イギリスにて語学研修
敏美イギリス、チェルシーフラワーショウ、キュウガーデン多くの種苗店見学
2005年 鏡仁 オランダ、クンスト社 にて研修6カ月
パイナップルリリー導入 トリトマ種類増やす
2006年 後継者鏡仁、経営参入 ガイラルリア栽培
2008年 全国育種の会に入会、あきひと、
若手の会設立入会、生産者、市場、花や。
その他の参加若手の会より、ネットリークのグループが出来る。
ヒペリカム初霜として増殖(約5アール)
わがが園花卉専業に、果樹全面的止め、畑地全面花卉栽培に。
<ネット花店開設、露地栽培の拡大>
2010年 耕地、大平氏の畑20アール借り入れ 10aにヒベリカム初霜、定植
2011年 長男雅喜東京より帰り、農業参入
2013年 1月雅喜スノボーにて行方(不明4月末発見される) 経営離脱
2014年 三男 裕幾 5月より農業参入(裕幾社長で、2016年(株)えんどれすどりーむ設立)
片桐(いたや)さん露地 20アール借り入れ
切り花用ラペイロージャ球根が50000球越え(全国我が園のみの栽培)
2016年 11月長野県農業功労賞受賞アルストロメリアにて(敏美)
2017年 鏡仁に経営移譲
ネット花屋「添える」開店
ネットにて添える 七花屋店員さん募集、
名古屋花屋さんより、中野市出身小林さん入店
「添える」花屋より3年後小林さん退職
新規に、ネット募集、添える花屋にスタッ7 西川さん 入店
2020年 川原田温室矢野沢川南、アンヅェリカ用、露地借入約20アール
新規に添える花屋に丸山あんりさん入店 添える花屋2人態勢に
2023年 スタッフ宮下さん退職 20年以上在籍
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