2004年の秋から冬にかけてだったと思う。キリン・アグリバイオカンパニーの松島義幸社⻑(当時)に、思い立って電話を入れてみた。わたしには不思議な能力が備わっているらしい。物事を突破するときや困っている人を助けるときに、神様がそうしてくれるのだと思う。電話をかけるタイミングについて、天上のどこかから指令が出されるのである。
呼び出し音で、松島さんは海外に滞在していることがわかった。オランダ、スペイン、米国、中国など、キリン・アグリバイオカンパニーは、海外にたくさんの子会社を抱えていた。当時の松島さんは、海外出張が多かった。
松島さんが電話に出て、「あー、小川先生ですか。いま上海です。ご用件は何でしょうか」。わたしから単刀直入に、「来年キリンを退職されると伺っていますが、次の行先はお決まりでしょうか?」と尋ねてみた。
2006年に会社設立が決まっていたMPSジャパンの社⻑人事が難航していた。JFMAの専務理事も空席になっている。
福井先生(元 岐阜大学応用生物科学部教授)の尽力で、日本法人の設立に関して、オランダ本部との交渉が大詰めを迎えていた。最大の問題は、誰に社⻑をお願いするかだ。
わたしの第一選択は、松島社⻑だった。しかし、すでに退職後のオファーが来ているとすれば、給与などの待遇面で好条件を提示することは難しいだろうと考えていた。多少の逡巡はあったが、とりあえず電話で話してみようかと思った。
その後の経緯は、会員の皆さんがご存知通りである。「JFMAイブニングセミナー」の席(6月19日)で、あの日の電話のことを紹介させていただいた。社⻑を引き受けていただくにあたって、すばらしく良好な条件を提示できたわけではなかった。
続いて挨拶に立った松島さんによれば、声が掛かっていたファンド会社からの提示額は、年俸で数千万円だったらしい。実は、わたしが電話を掛けたとき、会食の席で隣に座っていたのが、ファンドの社⻑さんだった。
もしも松島さんが、わたしたちのところに来ていただけていなければ、JFMAとMPSジャパンは存続できていなかっただろう。ふと斜めを見ると、松島さんの向かいに小川典子さん(花の国日本協議会 プロモーション推進室⻑)が座っていた。歴史の必然なのか偶然なのか、典子さんも、わたしからの電話1本で、ワコール(京都)からキリンビールに転職していただいた一人である。
20年後のいま、先日(6月10日)喜寿を迎えられた松島さんは「今まで病気で入院をしたことが一度もない」が自慢である。この先も、一日1リットルの牛乳を飲み続けて、健康に留意して日本の花産業のために元気で働いていただきたい。花業界人の皆からのお願いである。
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