【一本の電話から】自分の運命も、受けた相手の運命も変わった話

 昨日は、JFMAの理事会のあと、事務局長でMPSジャパン社長の松島義幸さんの喜寿を祝った。JFMAの理事顧問を中心に、花業界関係者、数十名が法政大学近くのクラフトビールの店に集まってただいた。
 会長としてあいさつに立ったわたしは、2004年当時、「キリン・アグリバイオカンパニー」(キリンビールの子会社)の社長だった松島さんが、JFMA/MPSに社長として来ることになった経緯(いきさつ)を話した。そのときの話は、今月号の『JFMAニュース』の巻頭言で紹介することになっている。


 本日のブログでは、友人やわたし自身の運命が一本の電話で変わた話をいくつか紹介することにしたい。この30年、いろいろな場面で電話をすることがあって、自分や周囲の運命が大きく変わった。
 
 松島さんの場合には、キリン・アグリバイオカンパニーから、ファンドに引き抜かれる間際に、電話一本で、JFMA/MPSジャパンに「奪い取った」ケースである。もしもの話になるが、そのタイミングでわたしが上海にいた松島さんに電話をしなければ、日本の花産業のいまは、今の状態とは大いに変わっていたことだろう。

 2番目の事例は、元ユニクロ社長で、その後にローソンの社長にスカウトされた玉塚元一さんからの電話である。この話は、次回作『ローソン、挑戦と革新(仮)』のプロローグでも紹介する。
 2015年4月のある日、玉塚さんの社長秘書だった澤田さんから研究室に電話が掛かってきた。その電話をきっかけにして、わたしがローソンについて執筆するために、経営に深く入り込んでいくストーリーのはじめである。

 3番目は、2年前まで法政大学大学院で同僚だった、平石郁生さんへのわたしからの「突然の」電話である。平石さんは、自身が興した会社「ドリームビジョン」の経営で躓いて、「晴耕雨読の日々」を過ごしていた。そのタイミングで、わたしから「客員教授をやりませんか?」と電話で依頼した。
 そのことがきっかけで、ベンチャー経営者(シリアル・アントレプレナー)だった平石さんは教職の道に行くことになった。現在、武蔵野大学の教授職にある。もちろん企業家であり投資家であることは間違いないが、大学教員としても活躍している。

 4番目は、2000年ごろにワコール(京都)にいた小川典子さんである。その当時、典子さんの伯父さん(小川純一郎さん)が、法政一高(現在、法政高校)の校長をしていた。たまたま、大学と高等学校の交流があり、花の産業の話を一高の父母向けに講演することになった。
 そのとき、小川校長から「姪が京都のワコールにいるのだが、花の仕事も副業でやっている」という話を伺った。キリンビールの子会社にいた松島社長が、有能な社員を探していた。即日、わたしから典子さんに電話をいれた。松島さんに面接してもらい、キリン本体で社員に採用してもらった。
 その後、典子さんは、「ウーマン・オブ・イヤー」に選ばれる栄誉に浴した。キリンビールに所属しながら、2009年にスタートした「フラワーバレンタイン」キャンペーンのリーダーになり、下zん材破、「花の国日本協議会」(青山フラワーマーケットの井上英明社長が協会長)の事務局を担当している。

 5番目である。井上社長との関係も、一本の電話からだった。2000年にJFMA(日本フローラルマーケティング協会)を立ち上げたとき、「大田花き」の磯村社長たち著名な花業界人が、『日経トレンディ』誌上で、「美しい花束」の誌上評価の企画に参加していた。
 都内の有名花店に混じって、聞きなれない名前のフラワーショップがあった。青山フラワーマーケットである。ブランド投票だったので、なんと、青フラのブーケが一番高い評価を得ていた。おもしろそうだと思ったので、南青山の本社に電話をして、井上さんにインタビューを申し込んだ。
 その後は、ごらんのとおり、青山フラワーマーケットは大躍進して、現在100店舗を超える日本で2番目の花店チェーンに成長している。パリやロンドンなど海外にも店舗を構えている。

 このほかにも、ユニクロの柳井正社長やブックオフの故坂本孝社長、物語コーポレーションの小林佳雄オーナーなど、一本の電話でつながった経営者は100人近くになる。
 電話の仕方が上手というより、興味を持った経営者には、臆せずにタイミングを計ってコンタクトを取るという習性が功を奏したきたのだと思う。出撃型の取材方針が、いまのわたしを支えている。出版社に対してもそうだった。

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