(その91)「能代図書館で講演会:故郷の記憶」『北羽新報』2024年4月29日号

 今回のコラムでは、能代図書館での講演会「著者が語る『わんすけ先生、消防団員になる。』」(5月11日)の内容を事前に告知することにしました。秋田県で講演をするのは、これで6回目になります。もしかすると、これが最後になるかもしれません。
 秋田市では3回(花の生産者の会合、法政大学の校友会の講演会、秋田図書館の招待講演)。能代市では、2回(能代医師会の招待、講演会)。最近では、東京で「能代高校校友会」の講演会を、千代田区のアルカディア市ヶ谷で行いました。
 昔から、講演は得意でも好きでもないのですが、書籍の発売記念や大学や業界の仕事のついでに頼まれたしていました。今回も、書籍の出版の記念で依頼を受けました。中学校の同級生や秋田出身の元ゼミ生からの連絡もあり、能代で懇親会を開いてもらうことになっています。
  

 
「能代図書館で講演会:故郷の記憶」『北羽新報』2024年4月29日号
 文・小川孔輔(法政大学名誉教授、作家)

 妹の友人で、能代図書館に勤務していた小野靖子さんの計らいで、5月11日に地元能代市で講演会を企画していただきました。場所は、能代図書館です。いま図書館の建物がある樽子山は、とても懐かしい場所です。
 能代高校の旧校舎は、樽子山の砂丘の上にありました。わたしは、旧校舎の正門坂下にある実家の衣料品店で生まれました。昭和26年(1951年)のことです。当時、能代高校は、「南高」(なんこう)と呼ばれていました。妹の道子や小野さんが卒業した女子校は、略称が「北校」(きたこう)でした。偶然ですが、実家の「小川商会」は南高があった樽子山から、能代駅前近くの北校の正門前に移転しました。わたしが小学校に入る少し前のことです。

 ところで、講演会のテーマは、「著者が語る『わんすけ先生、消防団員になる。』です。昨年10月に刊行した私小説の内容が、講演のタイトルです。ただし、出版の契機となった「東京下町での生活と冒険」の話題の他に、大学教授としてどのように研究や書籍の執筆を構想してきたのかも紹介します。
 また、昨年末に『北羽新報』のコラムで発表した「木都能代の再生」についても話すつもりでいます。能代市は、大正時代から昭和初期にかけて、東洋一の木都でした。子供のころ、製材所から排出される残滓の木粉の臭いが、町中に漂っていたものです。また、丸太を裁断する機械の唸り音が、通りに響いていました。
 米代川の河川敷にあった貯木場には、筏(いかだ)が浮かんでいました。筏の上で、フナや小魚を釣って遊んでいました。丸太を積んだ馬車が、家の前を通っていたこともかすかに覚えています。いま実家がある「追分町」という地名は、国道7号線と県道の分岐点を意味していました。能代の街が繁栄していた時代の象徴です。
 
 わたしが小学生になったころ、実家の商売は、一般の衣料品店から呉服店に転業しました。高度経済成長で商売が繁盛していたころ、父親を迎えに「金勇」に行ったことを覚えています。天井が杉材の絢爛豪華な宴会場、赤い毛氈を敷き詰めた廊下、立派な庭園を配した料亭は、いまは能代市が買い取って、金勇の建物は国登録有形文化財に指定されているはずです。
 経済成長が終わりかけた昭和50年代から、国産材が外材に押され始めます。地方都市の典型で、能代の町はさびれていきます。しかし、本年から中国木材の能代工場が稼働を開始しました。木都能代にとって、いま千歳一隅のチャンスが巡ってきています。
 輸入商材に押されてきた農林業が復活する兆しが見えます。以前、本コラムで、チューリップやダリアの球根を作ることを提案したことがあります。理由は、いずれは円安の時代が到来すると予想したからです。また、球根の産地オランダと秋田県の緯度が近いからでした。

 わが故郷の町は、美しい海岸線と松林など観光資源にも恵まれています。大手商社を中心に洋上風力発電などの新しい産業への投資も活発です。長く厳しい時代が続いた能代の町ですが、半世紀ぶりに繁栄の時代がやってくるかもしれません。そんな話などもしてみたいと思っています。

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