小売業の方たちにブログ記事(連載)が読み継がれている『しまむらとヤオコー』(小学館、2011年)

 本ブログには、読者の便宜を考えて、アーカイブ化したカテゴリーをいくつか用意してある。その一つが、2008年から2年間、『チェーンストア・エイジ』(現、『ダイヤモンド・チェーンストア』)に連載されていた『しまむらとヤオコー』である。書籍化はされたが、10年が経過して印刷本は絶版になっている。
 

 

 デジタル版ではいまでも販売されているのだが、現物がなくなっためだろうと思う。いまでも毎日、過去ログに対して数件から十数件のアクセスがある記事ある。本日も、検索をかけたところ、7件のアクセスがある記事を見つけた。

 当時、両社発祥の地(埼玉県小川町)にあるしまむら1号店を探していて、小川町の一号店で偶然にお会いした伊藤孝子さんのことだ。伊藤さんは、わたしが学生時代に調査で取材したとき、しまむら児玉町(7号店)の店長さんだった。偶然にも、同じ時期にヤオコーの店長(7号店)だったのが学卒一期生の滝沢さんだった。

 ふたりが一緒に働いている様子が、この回のテーマだった。それと同時に、ヤオコーの社長だった川野トモさん(当時、逝去)と、しまむらの創業者、島村恒俊社長(現、95歳)が売り場で売れ違う場面が描写されている。実は、取材から15年弱が経過しているので、筆者自身も忘れてしまっているエピソードが書かれていた(笑)。

 

 連載の第21回(2009年7月)の記事を引用してみる。

 

 第21回小川町経営風土記「ヤオコー、しまむら共同出店」『チェーンストアエイジ』2009年7月15日号
 (前号までのあらすじ)
 昭和51年、リクルートブックを利用して大卒1期生7人の採用に成功したヤオコーは、5号店までは開店初年度から黒字が続いていた。しまむらも、大手量販との戦いで苦戦はしていたが、フリースタンディング立地に出店した寄居店(4号店)などが寄与して、業績を順調に伸ばしていた。昭和50年の長瀬店から、両社は共同で出店を始めていた

 

 昭和54年4月、児玉ショッピングセンター
 「滝沢さん、ガラスクリーナー貸してくださいね。玄関のガラスドア、きれいに掃除しておいてあげますから」。
ヤオコーの滝沢勝雄店長(当時、25歳)に、ボランティアでガラス拭きの掃除を申し出たのは、しまむらの伊藤孝子店長(当時、36歳)である。孝子は、入口のガラスドアの汚れがどうにも気になって仕方がなかった。
 児玉ショッピングセンターは、1階がヤオコーで食品売場(250坪)、2階がしまむらで衣料品売場(200坪)である。
 「いつもすいませんね。その埋め合わせに、しまむらさんがセールのとき、店長室のマイクをお貸ししますから」。
 滝沢は申し訳なさそうに、孝子にガラスクリーナーを手渡した。1階のヤオコー店長室には店内放送用のマイクがあった。孝子は見切り品をアナウンスするために、しばしば滝沢に頼んでマイクを借りていた。ふだんはしまむらに来店しない食料品の買い物客が、孝子のセールの放送で2階まで足を運んでくれる。滝沢店長は、孝子には親切だった。
 「いつも売場に出て、一生懸命よく働いているわね。滝沢さんは!」。
 商品に気を配って、忙しく動きまわっている若い滝沢店長の姿が、孝子の目には好ましく思われた。

 

 (後略)

 

 いまのわたしとは、少し筆致が違っているが、このあとにも懐かし場面が続いている(興味のある方は、カテゴリー「連載 小川町経営風土記(全24回)」で検索をかけていただくと、連載の全部を当時のままで読むことができる)。

 この連載と、その10年前の著作『当世ブランド物語』(誠文堂新光社、1999年)が、わたしが作家になるための踏み石だった。そして、5年ごとにあまり間を置かずに、雑誌(チェーンストア・エイジ)や新聞(日経MJ)連載を持たせてもらっていた。

 書き続けることが、文章を上達されるための一番の近道だった。いまでも、こうして連載ブログを続けている所以である。