朝起きて、何年ぶりかで新聞を隅から隅まで読むことができた。世の中ではいろいろな事件が起きていることがわかった。
本日より、めでたく平教員に戻ることができたので、本を読んだり(Peter Robins, ‘Stolen Fruits’)、新しい本の企画書(「中国へのブランド移転」日経)を書いたり、適度なスローライフを楽しんでいる。緊急事態への対応に備えるために、心休まることなく過ぎた2年間であった。解放後の虚脱状態が恐ろしかったが、その瞬間はおとずれそうにないらしい。
23歳のときに「そうだ、大学教授になろう!」と考えたのは、高額な生涯所得を獲得するよりは、裁量可能で自由な時間がたくさんほしかったからであった。恒例になった「春合宿、夜の飲み会」(稲取温泉ペンション・マスカレード)で、新入生に「小川先生の職業選択」についてたずねられた。その折りに、遙か昔の決断を思い出したわけである。
超がつくほど低血圧の私は、学生時代、一時間目の授業に全く出席できなかった。母方からの遺伝らしく、いまでも最高血圧は88~93である。したがって、この体質を許容できる唯一の職業としては、大学教員しか思い浮かばなかった。
上級職公務員の先輩たちは、国会が近づくと霞ヶ関に布団を持ち込み、不眠不休で働いていることを知っていた。商社や銀行の勤務するためには、おつきあい上手である必要があった。わたしは孤独な一匹狼である。大手メーカーで出世の階段を昇っていく職業選択は、わたしのようにイレギュラーなことが好きな人間(単なるわがまま)にとっては退屈しそうだった。
ベンチャー(ビジネス)という言葉も概念もなかったからであろう。もしそうした分野で働く可能性を知っていれば、いまの選択はなかったかもしれない。仕事内容についても、時間管理についても、お金についても、すべて自己の責任で閉じている世界が好きである。そう考えてみると、結果論ではあるが、いま自分が取り組んでいる仕事はほぼその範疇に入っている。
大学教員はもっとも21世紀的な職業である。世界を広げていく方法論は、NPO、学会、産業界とのバーチャルなネットワークである。そんな風に考えて職業を選んだわけではないが、大きな組織にぶら下がることなく、己の知的資産を武器に世界と対峙していくことができる。知的先端企業で働く機会を得たことは偶然の幸せであった。感謝、感謝。自由な身と時間に感謝である。