小雨が降りしきるなか、法政大学の学位授与式が昨日(3月24日)、日本武道館で行われた。学部長として最後の公務である。九段下の駅で降りて、北の丸公園の桜を左に見ながら坂道を上っていった。
堀堤の桜のつぼみはまだ堅いが、卒業していく学生たちの表情は明るい。清成総長がトップに就任した8年前から、法政大学は変わりはじめた。東京六大学の”お荷物”から、関東で教学改革にもっとも熱心な大学に法政は変身できた。改革を担った多くの人間のひとりとして、昨日は感慨ひとしおであった。
改革の恩恵をいちばん受けているのは学生たちである。10年前とちがい、彼らは誇りをもって学舎を巣立っていく。法政の卒業生であることに自信を持ち始めている。全国各地から来てくれた父母たちの顔を見ていて、そのことが確信できた。
謝恩会の席で、祝辞者として招待された熊谷美恵さん(ヒットメーカー社長)に、10年振りの卒業式と後輩たちの印象をたずねてみた。変化にとまどっているようにも見受けられたが、母校の躍進にはうれしそうだった。
彼女の隣に清成総長が座っていたので、「大学がなぜ変わったのか?」「なぜ変われたのか」を説明してあげた。企業経営と同じである。トップの経営理念と指導力である。それを支えてくれた歴代の常務理事や学部長たちがいたからである。校友会も職員組織も総長の改革路線を支持してきた。
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熊谷さんの祝辞で印象に残った言葉をいくつか紹介しておきたい。
熊谷美恵さんは、1993年に文学部哲学科の卒業である。最初に就職した会社((株)ファインアート・アソシエイツ)が半年で倒産。(株)アオキインターナショナルを経て、(株)セガに就職した。2003年、弱冠34歳でソフト開発会社の(株)ヒットメーカー(セガの子会社)の代表取締役社長に就任した。
必ずしも順風満帆なキャリアというわけではない。しかし、10年後、見事に自分の位置を探しあてた個人として祝辞者として招待された。法政大学の歴史(122回の学位授与式)の中で、最年少ではじめての女性祝辞者となった。彼女もえらいが、彼女を祝辞候補者として選んだ選考委員の判断もいまの大学の雰囲気を象徴している。
武道館ステージでの熊谷さんの祝辞は10分ほどであった。学部長として雛壇上に並んでいるにもかかわらず、インタビュー取材時の悪いクセで、わたしは胸ポケットからモンブランを取り出して彼女の話をメモしていた。もしかすると、アリーナに陣取っていた卒業生の何人かは、わたしの振る舞いに気がついていたかもしれない。というのも、式開始直後に理事・学部長が入場する際に、「小川先生!」と女の子達から声をかけられて、ついつい手を振ってしまったから。
以下は、メモ記録を再生したものである。
彼女の会社人生は、「期待されない社員」としてはじまった。だから、思い切って仕事ができたと話していた。自分の好きなことに自由に取り組める環境を、自らの力で切り開いていったことがのちの幸運につながったはずである。もっとも、それを許してくれた上司がいたはずである。次の講演では、そのことがどのように彼女の仕事にプラスに働いたかを示してほしい。大切な支援者の存在を忘れてはならないだろう。
「未来は計画されたものではない」(小川の解釈)。だから、「いますべきことを今すぐに実行に移すべきである」。ひとびとに驚き(サプライズ)や喜び(デライト)を与える仕事をしたい。ソフト開発はそのような仕事である。モノであろうがサービスであろうが、受け手への感動の提供は、商品開発一般の要諦でもある。
彼女は「当事者意識を持って!」と壇上から学生たちに話しかけていた。仕事の成果を決定づける最大の要因は、たしかに当事者意識(問題状況へのコミットメント)であろう。それを、ふだんの仕事や教育でどのように引き出せるかが指導者の役割である。納得である。
「夢は具体的であるべき」というフレーズにも共感を覚えた。抽象的な議論をしそうな哲学科出身者が、具体的で現実的な仕事ぶりで若くして成功したことが興味深い。そういえば、ワタミフードの渡邊美樹社長の著書のなかに、「夢に日付をつける」という項があったことを思い出す。目標設定が具体的でないと、企図された計画は実現しない。
まだ35歳なので、この先まだまだアップダウンがあるだろうが、この後もロールモデルとなる卒業生として気張らずに頑張っていただきたい。最後に、熊谷さんとは、専門職大学院(イノベーション・マネジメント研究科)の授業で講演していただく約束をした。大学院生の皆さん、お楽しみに。