吉野家は牛丼の単品経営で押し通すべきである

 吉野家が在庫払底のため、牛丼の販売を中止してから2ヶ月が過ぎようとしている。味へのこだわりから、米国産の牛しか使わないという経営判断に世間は同調したかのように見える。しかし、消費者は冷たいものである。おいしくない豚丼には見向きもしない。


牛丼なしの吉野家の経営は先行き難しくなっている。以下は、阿部修仁社長だとしたらの筆者の決断である。結論:米国産牛肉の輸入再開の可否に関わりなく即刻、牛丼の販売を再開すべきである。われわれ消費者は、吉野家の牛丼が食べたいのである。
 牛の原産国がどこかは知ったことではない。安全でさえあればよい。脂身が乗っていておいしい米国産牛であろうが、値段が高い国産牛であろうが、牧草を食べてややパサつくオージービーフ(オーストラリア産)だろうが、本質的に関係ない。牛丼に特化してきた吉野家のせっかくのノウハウが泣くではないか。
 吉野家の牛丼単品経営はリスクが大きいと言われている。かつて吉野家の経営が破綻し、セゾングループの支援を受けたときも同じことが喧伝された。その後復活できたのは、単品経営のおかげである。今回、事情はやや異なるが、適切な復活へのシナリオはやはり同じである。中途半端に豚丼やカレー丼や麻婆丼を売るよりは、牛丼一筋がまっとうで健全な路線である。
 吉野家の経営について、経営陣たちが自らの事業について大きな誤解をしているとしか思えない。吉野家を成り立たせているのは、実は低価格商品ではない。「安い」は、「うまい」と「はやい」に優先するわけではない。安いにこだわりつづけると、マックの二の舞になる。牛丼の価格は、高くなければよいのである。280円も380円も同じである。海外調達で安い食材を使って商品が作れる状態は、もともと永遠に続くはずはなかった。不幸中の幸いである。早めにこの前提が崩れたことで、低価格路線から抜け出せる機会を得たと考えたほうがよい。
 わたしの戦略シナリオは、以下の通りである。
(1)牛丼再販売発表のタイミング
 人の噂も90日。「米国産しか使いたくない」と宣言した阿部社長の言葉を忘れさせるぎりぎりのタイミングが、販売中止(2月11日)から3ヶ月後の5月上旬であろう。したがって、販売再開の発表は、4月下旬(連休前)。連休中に一部店舗で販売開始とする。
(2)販売価格と世間の反応
 吉野家の経営状態が思わしくないことを世間は認知している。農水省が全頭検査にこだわっているから、米国産牛の輸入解禁は当分はむずかしそうである。だから、世論は吉野家に同情的である。5月連休から逐次テスト販売すればよい。国産とオーストラリア産のブレンド牛丼、あるいは、国産牛のみで390円程度の価格で販売して反応を見る。
(3)素材牛肉の調達
 国産牛の値段が先週から急騰している。極秘に大量買い付けをしている商社があると推測される。牛丼チェーンの大量調達が背後にあるはずである。輸入牛肉が割当制であったころに戻るだけである。かつては国産牛丼でもおいしく食することができた。得意分野でもない豚丼を作るよりは、得手の牛肉を素材にブレンド技術を磨けばよい。商品開発陣の努力は、なるだけ早く、複数産地調達によるブレンド牛丼復活に向けるとよい。
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 わたしが、あえて牛丼の単品経営で通すべしとする理由は、オペレーションに根拠がある。いまでも阿部社長が1000店舗を目指すならば、現在の単品=牛丼販売が最適である。これ以外にない。「新しいメニューで別の柱を作る」と言うべきではない。別メニューは別業態で展開すべきである。もうすこし根拠を具体的に述べる。
 中国の上海で、一昨年来数度にわたって、メニュー開発と業態を模索する状態を、出かけるたびごとに比較してきた。上海吉野家のカウンターは、従業員が客席に直に品出しをする「日本式」ではない。テーブル席が主体の「マクドナルド方式」(客待ち方式)である。メニューとしては、むしろ牛丼が控えにまわっていて、チキンプレートや3品ミックスなどが主体である。
 そうした観察の結果であるが、複数メニューを経営の柱とすることは、吉野家の得意技を活かせない。結論はすでに上海で確認済みである。中心商店街にある店の隣には、マック、KFC、ピザハットなどがある。モスバーガーが回転寿司と一緒に営業している一画である。従業員は一生懸命働いている。サービス水準も悪くないが、客の入り、味、回転で他店に完敗である。知名度の問題ではない。「ビーフボール」の優位性が活かせないのである。
 厨房の設計、調理器具の配置、商品作りの手順、従業員の作業動線、レーバー・スケジューリング。どれをとっても、低コストオペレーションで速い品出し(便利性)は、牛丼の単品販売でしか実現できない。牛丼はお客側(味と価格)だけの都合ではない。牛丼なしには、吉野家が吉野家でなくなってしまうのである。牛肉の調達先に拘泥するのは、愚の骨頂である。
 わたしの描いたシナリオ通りに事が運んで、再びおいしい吉野家の牛丼が食べられる日が来ることを、牛丼ファンとしては切実に望んでいる。