【柴又日誌】#131:旅の終わり、花火の余韻

 元ゼミ生たち3人と、8月3日に長岡の花火を観覧した。イオン長岡店の屋上駐車場から眺める、スターマインとフェニックスはすごかった。花火が終わってから、沼田まで車で移動して老神温泉に泊まった。打ち上げは9時過ぎに終わったが、渋滞で温泉到着は夜中の12時過ぎになった。温泉で軽く汗を流して、大部屋で車座になって、延々と2時半までビールとハイボールを飲んだ。

 

 翌朝、東京への帰路は、わたしはひとりで電車で帰ることにした。JR沼田駅まで、木村君がBMWで送ってくれた。

 そこからは、ローカル線の旅になった。上越線の鈍行列車で新前橋駅まで出て、JRの両毛線に乗り換えた。2か月前に、ワークマンの定時株主総会に参加するために降りた隣駅である。群馬に来るときはいつも暑い。あの日もとても暑かった。

 電車の中で、前日に撮影した花火の動画を編集して、友人たちに送った。短く編集した動画(54秒バージョン)の短縮版をLINEに投稿しておいたので、花火好きの知人にはロングバージョン(4分30秒)の動画を送信した。葛飾柴又の納涼花火大会の動画もそれなりに喜んでもらったのだが、やはりフェニックスと連射のスターマインの動画は感動的だった。

 海外でも何度か花火(「Fire Work」と呼んでいた!)を見たことがある。彼らも豪快に花火を打ち上げるのだが、尺玉や変化花火を創る基本的な技術がちがっている。日本人が打ち上げる花火は、繊細でとにかく芸が細かい。色の組み合わせや破裂後の小玉の散り方に工夫が凝らされていて、海外の花火は全くかなわない。

 

 そんなことを動画のコメントに書いて、各駅停車の列車からみなに送っていた。沼田駅から先は、深い渓谷に沿って電車が走る。利根川に繋がる谷沿いの流れを見ながら、20分ほどで各駅に停車してきた列車は渋川駅に着いた。35年ほど前のある日、亡くなった同僚の遠田先生ご夫妻と、渋川の近くにあった坂東簗(ばんどうやな)まで、天然の鮎を食べに来たことがあった。

 8月の中旬だった。鮎のお刺身はスイカの香りがする。鮎の刺身に塩焼きで、先生が大好きな日本酒を飲んでいた時だった。急に空が掻き曇ったと思ったら、突然の雷雨が簗場を襲った。坂東簗の建物は、当時はオープンな造作だった。いまのように扉がついていなかったから、簗側近くに席を取っていたわたしたちには、大粒の雨が側面から飛んできた。

 驟雨はほんの一瞬だった。30分ほどすると嵐は通り過ぎて、川面を涼しい風が吹き始めた。軒先に吊り下げてあった風鈴が、ちりんちりん鳴って、また暑い夏が過ぎていくのかと感慨深い思いをした。わたしたち夫婦と遠田さんご夫妻は、そのころはとても仲良しだった。

 その後、両家は疎遠になってしまった。個人的な贈り物でのアクシデントと、不幸にも学内政治での反目があったからだった。それから、わたしは何度も親しい友人を失うという不幸な目に合ってきた。残念なことだが、自分から選んだ道だった。もはや取り返しはつかない。過ぎ去った時間は、いまさら巻き戻せないから。

 

 車窓からそんな昔のことを思い出しながら、上越線の普通電車は終点の新前橋駅のホームに入線した。目の前に、高崎行の両毛線の電車が滑りこんできている。予備校の夏期講習にでも通っているのだろう。夏服で半袖の学生さんたちが、わたしの前から電車に乗り込んでいく。

 急ぐ旅ではないが、帰宅後にやるべき仕事が待っている。高崎駅からは、そのまま各駅停車の旅を続けることもできる。在来線の上野東京ラインに乗って、大宮経由で上野まで出ることにするか、上越新幹線に乗り換えるか。少し迷った挙句に、新幹線を選んだのだが、それが間違いのもとだった。あちゃー、上りのたにがわ号は、自由席もすべて満席になっていた。

 最初に乗り込んだ1号車から、自由席最後尾の5号車まで歩いて到達した。座席指定の6号車の通路も、立っている人で埋まっている。往路の上越新幹線の「とき321号」でも、同じ経験をしていた。長岡の花火開催で、上野から乗り込んだ時にはすでに満席だった。ドアの入り口付近の床に座って、そこから1時間を過ごした。

 いつもそうなのだ。学習しない人だった。そのまま在来線に乗り換えて、2時間をかけて赤羽経由で日暮里に出るのが正解だったのだ。

 

 それにしても、ひさしぶりで通常開催になった花火大会の会場は大混雑だった。渋滞の中を通り抜けて、温泉ではみんなとしこたま飲んだ。それはそれで楽しい夜を過ごした。翌日は、静かに車窓からの景色を見ながら、かつての思い出に浸るところまではよかった。

 しかし、長い一日の後で、復路の新幹線でも、ドア付近の床に2日続けて座ることになるとは。冷たい床に座りながら、50年前の夏、帰省した夜行寝台列車の車窓からの眺めを思い出していた。田舎から出てきた大学生は、とても貧しかった。2年後に大学院に進学した後で、同級生たちは就職活動を終えて自分なりの道を歩いていた。一方で、大学院に進学したわたしは、将来の見通しが全く持てなかった。

 かつても同じ床に座っていたはずだが、あの時の自分はずいぶんと暗い気持ちでいたと思う。それに比べれば、昨日の上越新幹線の床などは、たいして気にもならなかった。時間はそうして過ぎていっていた。電車は満席なのに、不思議とデッキでは目の前を誰も通らない。平べったい床に足を延ばしながら30分を過ごしたら、次の大宮駅で指定席がほぼ空っぽになった。