ずいんぶんと前に、神田小川町の事務所で行われた「プライシング」に関するインタビュー記事が、『フィットネスビジネス』という雑誌に掲載されている(はずだ)。『「値付け」の思考法』やJCSIでのデータ分析の経験を買われて、インタビューされた記憶がある。掲載紙が手元にないので、編集長から送っていただいたメモから記事を復刻してみた。
その後に、わたしから訂正文を入れていない。この記録の形で公表されているだろう。メモを復元してみると、ずいぶんなロングインタビューになっていた。
全体のタイトルは、「プライシングは、よく考え、実験を繰り返して検証して、決めよう」となっていた。
インタビュー:法政大学名誉教授(小川孔輔氏)
●これから起こるのは、ヘビーユーザー化と上位企業の高シェア化
法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科教授として、長年、マーケティングやブランド戦略について、教鞭を執りながら、研究活動も続け、特にサービス産業分野におけるJCSI(日本版顧客満足度指数)調査などにも、長年にわたり携わってきている法政大学名誉教授小川孔輔(おがわ・こうすけ)氏。『「値づけ」の思考法』(日本実業出版社刊)、『しまむらとヤオコー』(小学館刊)、『マクドナルド 失敗の本質』(東洋経済新報社刊)など、マーケティングにかかわる著書も多い同教授に、プライシングのキーポイントについて訊いた。
この間、急にあらゆる分野で物価高が進行しているが、背景では何が起こっているのだろうか?まずは、この点から、同教授に訊ねてみた。
「日本企業の多くは、この30年間、海外で品質をコントロールし、安く材料や商品を調達して、国内の消費者にリーズナブルな価格で売るということをしてきました。ニトリやユニクロ、カインズ、サイゼリヤ、日本マクドナルドなどを思い浮かべていただければ、イメージできるでしょう。ところが、少し前から、この構造が崩れはじめました。高い粗利で、経営に余力(スラック)があり、円高に振れることを予測しているため、もう少しがまんしようと値上げをしない強い企業もいくつかはありますが、多くの企業が、円高を背景にした海外依存から円安基調となり調達にかかわるコストが上がってしまい、当然これはこのくらいの値段だろうという慣習価格を壊さざるを得なくなり、2度、3度と値上げに踏み切る企業が出てきています。つまり、(1)値上げしなくてもいい会社、(2)値上げできる会社、(3)苦しくて値上げせざるをえない会社の3つに分かれてきているのです」。
このうち、(3)苦しくて値上げせざるをえない会社は、これからどうなっていくのだろうか?
同教授は、「そうした企業の店舗では、特定の顧客だけになり、他の顧客を失っていくのではないでしょうか」と述べる。つまり、ヘビーユーザーだけになっていくということだ。さらに、同教授は、上位企業のシェアがますます高くなっていくのではないかとも予測する。そして、フィットネス市場でも、そうした可能性があるのではないかと示唆する。フィットネス事業者としては、ヘビーユーザーだけのクラブにならないこと、さらにはビジネスモデルやエコシステムの完成度を高めて、あるカテゴリーでは一定数の顧客の支持を得てシェア上位のクラブになることを目指していくことが大事になるであろう。
「アパレルなどを扱うファッション業界でも、これから将来に向けて、シェアの低いブランドは、淘汰されていくのではないかという議論がされているようです。ZARAやユニクロなどのグローバルなブランドとアダストリアなどのローカル大手数社しか生き残り成長していくことはできないかもしれなません。フィットネス産業も、慣習価格が壊れた後でも、価値創造できる企業になることが必要でしょう」。
同教授は、マーケティングにより変化対応していけるケイパビリティを持つことの重要性をこう指摘している。
●重要になる、情緒的価値の提供
全サービス産業のJCSI(日本版顧客満足度指数)を継続して調査している小川教授は、フィットネス事業者は、カーブスを除き、ほぼすべてのフィットネスクラブに共通する特徴があるという。CSI(顧客満足度)の幅が、他事業と比べると極めて狭いのだ(図表●参照)。もちろん一部のロイヤル化しているファンは高いCSIを示すだろうが、多くの一般的な顧客から見たら、このことは、どのブランドのフィットネスクラブも決して低いCSIではないものの、どのクラブもほぼ同じくらいであると見なされているということになる。各事業者は、独自のブランドとして顧客に評価されていると思っているのかもしれないが、そうした事業者の思いとは裏腹に、一般的な顧客は、どのクラブも相応の品質のクラブと感じているのだ。
ただ同教授は、次のようにも述べる。
「長期的に見て、低くも高くもない相応の水準のCSIを長年にわたり維持できているということは、コロナ禍の影響を受けて一時的に顧客離れが起こったとしても、また元に戻る可能性は大きいということが言えるのではないかと思います。実際に、長期間在籍している会員も、それなりにいて、そういう会員は戻ってきてくれていますよね。コロナ禍で、普段から健康づくりをしていることの大切さに改めて気づかされた会員は多いと思うのです。さらにいえば、住友生命Vaitalityなど、特徴のある周辺の健康サービス事業はこの間に成長してきています。健康に気を遣おうという生活者は、増えてきているということでしょう」。
カーブスやRIZAP、Dr.stretchなどのように、生活者のニーズをきちんと捉え、自社なりのリソースを活用して、顧客から見ても差別化されたサービスを提供するクラブになることができれば、需要を吸収しながら、価格を上げて利益を高めていくこともできるということだろう。だが、差別化できずに、同質的なサービスを提供している限り、それはできない。
これから生活者を惹きつけるサービス事業を創造しようとする時に、キーとなるのはどんなことなのだろう?
同教授は、(機能的価値を備えたうえで)情緒的な価値も備えていき、それを魅力と思ってもらえるようにしていくことだと指摘する。
顧客に寄り添い、コミュニティのように、エンゲージメントが感じられるクラブになっていくことが求められよう。それができると、プロテインなどのオプション商品・サービスなども、スタッフが薦めることで購入してもらいやすくなるのだろう。
●プライシングは、熟考し、実験し、検証して決める
「よいプライシング」と「悪いプライシング」があるとしたら、その違いは、どんなところで生まれるのだろう?
小川教授は、「まず、一言でいうと、極端な(値上げや値下げを含む)値づけをするのはダメですね」と述べ、あるベーカリー店の事例を紹介する。
「100円均一のショップをヒントに“100種類の100円パン”をコンセプトに掲げて、1店舗当たり1日平均3,000個を売るベーカリー店舗を埼玉県上尾市中心に展開している会社(さいたま市)があるのですが、小麦などの原料費や水道光熱費の高騰を受けて、値上げを迫られました。この会社が展開する店舗は、店内にあるキッチンで、生地からこねて、売れ行きを見ながらパンを焼くため、焼き立てのパンが一日中フレッシュな状態で棚に並んでいます。パン職人にとっても実に楽しい職場になっていて、多くのお客さまを惹きつけています。同店は、ほとんどのパンを120円に値上げし、残り2割のパン(子ども向けのパンと日替わりのパン)だけ100円のままで販売することにした結果、平日の売上高は、少し減ったのですが、原価の上昇分をぎりぎりカバーでき、なんとか業績(利益)を維持することができました。ここで、大事なポイントがあるのですが、一部の商品を値上げするときに、120円、150円、180円というオプションを用意し、一部の店舗で実験してみた結果、120円が最適と判断し、全店でそれを実施したという点です。客離れも招かず、原価の上昇分もカバーできる最適案が、『一部商品を120円にすること』だったわけです」。
顧客の心理の傾向を理論化したものに「閾値理論」があるが、これは値上げや値下げが少額の場合、顧客はあまり価格が変わったことに気をとめないが、ある水準を超えると、急に値段の違いに敏感になり出すという理論であるが、まさにこのベーカリーは、最適な「閾値」にとどめて値上げを実施したのだった。その「最適な閾値を、同店は長い時間をかけて熟考し、さらに実験もして何が正しいかを検証したことが、キーポイントだった」(小川教授)。ただし、その閾値理論のままに値上げがよい結果につなげられたのは、あくまで種類豊富なパンが焼きたてで一日中フレッシュな状態で提供されているというプロダクトの品質があることが前提となっていることも忘れてはならない。
マクドナルドやユニクロなども、当然のことながら、同様にして熟考し、実験し、検証しながら、文字通りプライシングに取り組んでいる。つまり、「プライシングとは、サイエンス。心理学であり、科学なのです。勘で決めるのは、ダメ」と、同教授は語る。
●プレミアム戦略をとる場合、一部の顧客の離反はしようがないという覚悟をもつ
高めの値づけをしたプレミアム戦略を取りたいと考えた場合、マーケティング上、ポイントになることや注意点は何か?
「まず言えることは、高めに値づけをすると顧客は少なるので、しようがないと思うことでしょう。自社が最も好ましいと思える(喜んでもらいたいと思う)顧客に残ってもらうんだという意識が必要になりますね」。小川教授は、こう述べる。つまり、価格志向の生活者は、対象顧客からは、外す勇気を持てということだろう。
「先ほど例に挙げたベーカリーでいえば、大半のパンを100円から120円に値上げすると決めたときに、ある程度の客数の低下は、覚悟したと思うのです。実際に、平日の来店客数は減少しましたから、ほかの店舗に流れたということでしょう。でも、土日の来店客数は変わらなかったために、売上高は増え、利益も維持することができたわけです。同社では、むしろ従来以上の利益が出せることが分かったため、それを原材料の品質やパン職人の給与を上げる原資にして、顧客を惹きつけることにしたのでした」。
高めの値づけをする場合は、本当にファンになってくださる顧客は誰かと考え、その顧客が望むことに対応していくようにするとともに、そこから外れる顧客も出てしまうが、それも想定の範囲に入れてマネジメントしていくことが求められるということだ。
「フィットネスクラブにおいても(差別的な特徴を備えて)プレミアム戦略を導入する場合は、それを歓迎しない一部の顧客は、離れてもしようがないという覚悟をもつことが大事でしょう」。
小川教授は、こう述べる。プレミアム戦略を導入したクラブから離反する顧客がいたとしても、また別業態を立ち上げ、そうした顧客のニーズに対応したマーケティング―顧客が機能的な価値を利便性高く、より安価に得られるようにするコストリーダーシップ戦略と整合する取り組み―をしていくと同一商圏内の異なるニーズに幅広く対応できることになるのではないか。
一方で、プレミアム戦略を導入する場合は、情緒的価値や自己実現価値を大切にしていくことが重要になると、同教授は指摘する。
「(プレミアム戦略を導入する場合)機能的な価値を担保したうえで、例えば、会員とインストラクター、あるいは会員同士が、親しくなり、それがコミュニティとしての情緒的な価値も醸成し、それが関係者の間で魅力なっていくようにしていくといったことも必要になってきます」。
情緒的価値を醸成していく場合にも、対象とする顧客層が、どんな価値を欲しているのか、明確に見極め、それを実現し、提案していけるようになることが求められてこよう。対象とする顧客層ごとに、欲する価値は異なるので、「今後は、業態が多様化してくるのではないか」(同教授)。その先では、こうした差別化戦略をとる企業群とコストリーダーシップ戦略をとる企業群に分かれて、その間にポジションするような中途半端なクラブは淘汰を余儀なくされていくのだろう。
●顧客の立場で、創造的にオプションサービスやサブスクサービスを考える
コロナ禍や物価の高騰など、環境が変化するなかで、変化に対応するように様々なサービスが創出されてきている。そうしたなかで、サブスクモデル化する事業も増えてきているのではないか。フィットネス事業もサブスクモデルを採るが、そうしたモデルを成功させるポイントは、どんなところにあるのだろうか?同教授に訊ねた。
「花や食品のデリバリーなど、様々なサブスク型のサービスが出てきていますが、成功裡に取り組まれている事業は、基本的に『(余計な機能をすべて取り除いていく)ノンフリル』のサービスを提供していて、価格もリーズナブルにしているところに特徴があるのではないでしょうか」。
サブスク化しながらも、客単価を向上させていくことはできるのだろうか?できるとしたら、そのポイントは何か?続けて、同教授に訊いた。
「客単価=買い上げ点数×商品単価なので、点数が下がったとしても、既述の100種類の100円パンの事例のように単価を閾値の範囲で上げていけばよいのではないでしょうか。きちんと品質が担保されていて、顧客が魅力を感じているなら、それほど恐れる必要はないと思います」。
NetflixやNewsPicks、Amazon Primeなどのサブスクサービスも、この間に価格を少しづつ上げてきている。結局は、対象顧客にとってどれだけ魅力的なサービスを提供できているかというところに帰結することになろう。その魅力が高ければ高いほど、そしてそのサービスが模倣困難で競合が少ないほど、高めの価格が設定できることになる。
オプションの商品・サービスを販売して客単価を高めていこうとする時、ポイントになることはあるだろうか?
同教授に、そう問うと、「これは、まだそれほど広がっていないアイデアですが」と前置きしたうえで、自身が年間20回以上も出場しているという趣味のマラソン大会で出走者に配布される商品について言及する。
「多くの大会でロゴ入りの記念Tシャツがもらえると思うのですが、なかには欲しくないという方もいるはずです。そうであるなら、(近年、値上がり傾向のある)参加費からTシャツの原価に相当する1,000円程度を値引きするか、あるいは別のオプション―開催地にあたる、その地域ならではの名産品など、ほかに欲しいもの―を揃えて、選択できるようにするということをしてもよいのではないでしょうか。昨年、東京・青山で開催されたウィメンズマラソンでは、オプションでお花をもらうことができて、好評でした」。
フィットネスクラブでも、オプションサービスというと、いくつか定番の商品・サービスで固定化、常識化されてしまっていることが多いが、そこを顧客視点でもう一度考え直し、顧客にとって魅力的な新たな商品・サービスを考えることが大切ではないか。例えば、月1回、または2回のパーソナルトレーニングを含んだサービスや食事管理までを含んだサービス、デジタルを活用した特別レッスンや測定などをセットにしたサービスなどを定額で購入できるようにしたり、またある特定のインストラクターやプログラムのイベントへの参加をクラウドファンディングで集めて開催したり、あるいはオンラインでのレッスンに「投げ銭」機能を盛り込んだりといったことが考えられよう。
今後、フィットネスクラブのようなサブスクモデルを採るサービス産業の行方は、どうなるのだろうか?変化する未来に対応していくために重要になることは、何になるのだろうか?最後に、小川教授に訊いた。
「サブスクの一番のよいところは、長期契約で数値が読みやすくなるところです。ですが、あらゆるものが、サブスクになるわけではありません。とはいえ、健康サービスのように―それが身体的なものだけではなく、精神的なものでも―習慣的にずっと、日常生活のなかに取り入れて利用していきたいと思えるものなら、サブスク化しやすいと思います。ミネラルウォーターやサプリメント、教育コンテンツなども、すでにサブスク化されていますからね。こうしたモノをフィットネスサービスに付帯させるというのも1つのアイデアですね」。
先に、同教授は「成功裡に取り組まれている事業は、基本的に「ノンフリル」』のサービスを提供していて、価格もリーズナブルにしているところに特徴がある」とも述べていたが、こういた点と併せて、発想してみると、未来型のサブスクサービスが、思いつくかもしれない。
同教授は、「健康でいたいという人々のニーズは、これからも変わらないけれど、それを実現していく方法は変わってくるばかりではなく、多様化もしていくので、革新を好む事業者にはチャンスとなるでしょう」と述べた後、「ただし、そのチャンスをつかむには、よく考えること、そして、そこで立てた仮説を科学的に何度も実験を繰り返し検証していくことが大切になるでしょう」と述べた。
プライシングは、競合を見て決めたり、ましてやリーダー的な立場の者が勘で決めたりするものではない。市場のなかで顧客が感じる価値との見合いで決まる。その意味では、小川教授が言うように、まさにサイエンスであるといえよう。