法政大学で45年間、教鞭をとってきた。最初の年は研究助手だった。授業もゼミも持たず、好きな研究をしていればよかった。東大の大学院生でもあったので、市ヶ谷キャンパスにはほとんど顔を出さなかった。採用が決まると、大学はなんの働きもしていない若者の口座に給料だけ振り込んでくれた。「この大学は気前が良いところだなあ」と思ったものだ。
建学の精神は、自由と進歩。自由な大学に就職したものだと思った。その後、他大学から移籍の誘いをすべて断ってきたのは、自由な校風と、主流派に属さない挑戦的な研究を受け入れてくれる同僚の寛容さが好きだったからに他ならない。
たとえば、JFMAのような花産業の横断的な団体を、2000年に学内で“起業”することになった。いまだから言えるが、一部の教授たちからはわたしたちの活動は妨害を受けた。いまでこそ、「大学発ベンチャー」は特別な存在ではないが、JFMAや自主マスコミ講座(稲増教授主宰)は大学発のベンチャー組織そのものだった。自主マスコミ講座からは、民放の女子アナや放送記者、新聞記者たちをたくさん輩出している。
就職したばかりのころのことである。「小川君は、良い仕事をすることだけに専念しなさい」と学部長の森川英正教授(当時)に言われた。教授会の雰囲気も好きだった。年功序列ではなく、教授会のメンバーは実力で評価されていた。にもかかわらず、ほとんど何の業績もないわたしを、一年後にいきなり講師に昇進させた。
「これは、将来に対する前払いのボーナスなんだ」と思ったものだ。経営学部教授会は、30歳のわたしを2年間、カリフォルニア大学バークレー校に留学させてくれた。順番がまだ来ていないのに、2人の先輩が留学の順番をわたしに譲ってくれた。他大学に移籍しなかったのは、同僚や先輩たちから受けた恩義に報いる意味もあった。
在籍45年で、200篇を超す学術論文と、翻訳や共編著を含む48冊の著書を発表することができた。学問をする環境に恵まれていたからだと思う。教えた学生の数は約1万人。小さな町の住民の数に匹敵する。2年目からゼミを持つことになったが、面倒を見た学部生は45年間で約500人。30代~40代にかけて、若い教授のゼミは人気だった。
マーケティング論の授業では年間500人を教えていた。人気ゼミは10~20倍の競争倍率だった。92年に社会人向けのビジネススクールを専攻主任として立ち上げた。教えた院生が約1200人で、直接ゼミで指導した院生は約120人になる。なお、わたしの下で学んで大学教授になった院生は20人を超えている。本学でも4人が専任教授職に就いている。
たまたま個人のインスタグラムを見ている人で、「その昔、先生のマーケティング論や外国語のクラスにいました!」という元学生が時々現れる。1万人を超える学生を教えてきたからだろう。レストランや空港のロビーで、声を掛けられることもある。授業の話題が生々しくて面白かったからだろう。授業内での予言はかなりの確率で的中している。
定年退職で残念なのは、この予言ができなくなることだ。大学教授とは、自分の思ったことは何でも、勝手に言って構わない職業である。その特権を失ってしまうのが、ちと悲しくもありさみしくもある。