拙著『ロック・フィールドのDNA(仮)』(PHP出版)の執筆は、本日現在、第5章第3節まで来ている。この章は特別な趣向で、4人の開発シェフたちのインタビューで構成されている。初めの早瀬さんの分をそっと読んでみてください。実におもしろい逸話がてんこ盛りです。
第5章「匠たちの物語」 V5:0210909
1 匠職たちへのインタビュー
<神戸本社の社員食堂にて>
猛暑の夏だった。2019年8月5日。海からの風が気持ちよく吹いてくる神戸本社の会議室で、3人の匠職(早瀬さん、日向さん、相馬さん)と女性シェフ(明山さん)へのインタビューが行われようとしている。インタビューは、13時の開始が予定されていた。
ランチタイムで、時刻は12時を少し回っている。「日本一美味しい社員食堂」は、順番待ちの社員さんたちで混雑している。ランチはサラダが食べ放題で、一食当たり200円。静岡ファクトリーの社員食堂は、見晴らしの良い森の中にあった。ここ神戸ファクトリー(兼神戸ヘッドオフィス)では、神戸港を見下ろすことができる、テラス風の食堂で仲間とランチを楽しむ。
インタビューチームの3人(小川、中野、林)は、3階のテラス席から、大型フェリーが接岸したばかりの埠頭が見える特等席で、岩田会長とランチをともにしていた。来月発売になる新商品のサラダの試食も兼ねたランチだった。
匠職の3人は、80年代に入社した企画開発本部所属の実力古参社員である。皆さん、強烈でユニークな個性と特異な経歴の持ち主である。匠になるまでの経緯はそれぞれ違っていても、岩田会長とは強い絆で結ばれている。3人に共通しているもうひとつの特徴は、仕事への情熱である。訥々とした話ぶりながら、仕事への取り組み方には野武士のような頑固さが伝わってくる。
明山さんだけは、静岡ファクトリー竣工時の91年に入社している。中堅の企画開発担当シェフである。わたしが2015年に著した『CSが女子力で決まる!』にも登場していただいている。 今回は、4年ぶりのインタビューになった。彼女は、結婚・出産・育休・職場復帰のあとに、ご自分が闘病を経験していたことがわかった。現在、担当しているブランド(ベジテリア)についての奮闘ぶりを伺うことができた。
アシスタントの林麻矢さんからは、インタビューの後に、会話音源を文字に起こしてもらっている。今回の追記録の表紙には、こんなコメントが残されていた。
「(前略)お話しの中からは、埋もれてしまいそうなエピソードや歴史も出てきました。この機会がなければ、残らなかったかも知れない貴重なお話しを、しっかりDNA本として残る記録ができました(林)」
4人へのインタビューを通して、企画開発の裏側にあったリアル・ストーリーを貴重な記録として残しておくことができた。
(中略)
2 早瀬達秋さん(企画開発本部 匠職)
<入社のきっかけ>
【小川】先ずは、ロック・フィールドに入社されたきっかけを教えてください。それと、サラダの担当について、お仕事の軌跡みたいなものを簡単にお話してください。
【早瀬】わたしは近大の海水増殖を卒業して、それから淡路島で漁師をしていました。2年か3年ぐらいでした。漁師は狭い世界で、漁業権などは世襲なものですから、サラリーマンの息子が漁師になりたいと言うのはかなり大変でした。学生の時にペットショップでアルバイトしていましたので、自分でペットショップをしたいなと思い神戸に戻ってきました。その準備を始めていたのですが、母親が岩田会長と仲が良かったので、「息子が神戸に帰ってくるねんけど、どうやろう」という話をしていたようです。
【小川】個人的な繋がりですか?
【早瀬】そうです。そうしましたら、会長から「ほんなら一回会社見に来こいや」と言われ、訪ねました。ちょうど神戸の工場が建ったころ(1980年)です。
【小川】どういう会社かはご存じでしたか?
【早瀬】全然知りませんでした。それで、工場を見せてもらいました。当時、会長は強面で、姿かたちが全部ヤーさんのようでした。その当時はよく肥えていたし、そういった感じのスーツを着ていて、「いつ来んや」と言われ、怖いと思いました(笑)。
何も分からずに(会社に)入りました。魚の餌を作るのも人間のごはんを作るのも同じだということもあり、入社しました。
【小川】たしかに同じですね(笑)。ところで、入社された81年当時は、神戸にあった最初の工場ですね。いまの古塚社長がまだ入社されていない時ですね。
【早瀬】僕が入った時は、生産者も少ししかいませんでした。それでサラダの担当になりました。その頃は、皆で「良いもの食べないかん」と言って、よくご飯食べに行きました。神戸の「ジャン・ムーラン」というレストランにも行きました。 フランス料理のフルコースで、結構高かったのです。そこで、「あ、こういう料理になるんや」と思い、ちゃんと勉強してみようと思いました。そこからです。
【小川】会社に入ってから、連れていってもらったのですか?
【早瀬】そうです。仲間といっても、皆、どこかのシェフをやっていたとか、料理を目指す人ばかりで、僕だけが違いました。何が面白かったかというと、全然休みのない漁師だったので、この会社でも休みはなかったのですが、全然苦になりませんでした。「こんなものは食べたことないわ」となって、それなら自分で勉強してみようと思いました。
<入社からサラダの開発まで、思い出に残っていること>
【小川】73年に「高島屋大阪店に惣菜の2号店」とあります。会社としてはすぐにサラダにいくわけではなくて、いわゆる百貨店に納めるものを作っていますね。
【早瀬】開発の部屋があって、わたしは最初からサラダの担当でした。何も知らかなったので、いつも仕事が終わってから、肉やグラタンの仕事を手伝いに行ったりしながら、少しずつ技術を覚えていきました。それで自分でも試作したいなと思い始めました。
【小川】自分で開発とか、メニューを作るということですか?
【早瀬】そうです、自分でやろうと思って始めました。開発は、現場でやっていました。マヨネーズでも、大体一回作るのに10分くらいかかります。それを5分ぐらいに出来ないかなと。10回やれば50分ぐらい時間ができます。空いた時間を自分のために使っていました。
【小川】早瀬さんが、サラダの開発で思い出に残っていることはありますか?
【早瀬】当時は、例えばポテトサラダだと、ジャガイモと野菜がミックスされて、完成品で店舗に出していました。だけど、どうしたら一番美味しいサラダが出来るのかと思って行きついたのが、食べる直前に野菜と合わせるということでした。それなら野菜の食感も残っていて、みずみずしさが伝わるということです。サラダの試作を始めていました。
【小川】僕らが子供の頃に食べていたサラダは、マカロニサラダやポテトサラダで、ベチャっと和えたようなものでした。だけど、ロック・フィールドさんのサラダは、ある時からパリパリ感だとか、素材を上手く活かしたようなものに変わっていきましたよね。早瀬さんが最初にそういうサラダの試作を始めたということですか?
【早瀬】そうです。そこに辿り着いたのです。入社して2年から3年目ぐらいです。何が良かったかというと、私は料理人ではなかったので、洋食も和食も中華も関係なかった。ジャンルは関係ないので、全てをサラダに繋げようと思いました。ひじきもサラダにしたりして。
【小川】他のシェフの方は料理学校とかで、中華やフレンチ、和食というようにカテゴリーがある程度決まっている。ところが、魚を扱っていたというルーツがあるので、カテゴリーには囚われなかったということでしょうか?
【早瀬】囚われなかったです。でも、サラダの担当は偶然です。そこで、新しいサラダを考えるという時に、自分だけでは分からないので、色んな所に教えてもらいに行きました。
(後略)