江戸時代の町人や武士たちはどんな食生活をしていたのだろうか。そんなことが気になっていた。この後で紹介する、おおやかずこ著(1995)『おかず屋のおかず』(柴田書店)では、昭和になって登場した「惣菜文化」の本質が見事に描かれている。それでは、時代を遡った江戸時代(150年~400年前)に、わたしたちの祖先はどんなものを食べていたのか。それを知りたいと思った。
本書は、両国にある東京江戸博物館で購入した一冊である。ふらりと「江戸浮世絵展」(2019年秋)を見に行って、ロビーの本屋で手に取ってかごに入れた。著者の大久保洋子先生は、実践女子大学の文家政学部教授で、食文化論や調理学の専門家。江戸食文化に関する著書が多数ある。1998年に、『江戸のファーストフード:町人の食卓、将軍の食卓』(講談社)から出た本を文庫化したものである。(*注:ファーストフードとファストフードのふたつが文章中で混在している)
原著の表題にあるように、「江戸の町人たちは、手軽に屋台で食べられるファーストフードを楽しんでいた」というのが結論である。現在の和食(日本料理)の原型は、江戸時代の町人たちが食べていた、寿司や天ぷら、そば・うどん、鰻のかば焼きなどに源流がある。
屋台で食べる簡便な料理(ファストフード)が、260年間続いた徳川幕府の治世で完成している。背景にあるのは、豊かな自然と安定した政治状況だろう。そして、江戸の人口規模(約100万人、武家50万人、町民50万人)と、よく考えられたリサイクルシステムのことも忘れてはならない。金肥(下肥)の価値が、最終製品の野菜より貴重だったとは知らなかった。
寿司や天ぷらの起源を簡単に紹介しているのが、第1章「江戸のファストフードのにぎわい」である。
天ぷらには、ポルトガル渡来説やオランダ起源説がある(中国渡来説もある)。言語的(てんぷーら?)には、日本語ではないということになっているが、東京湾で獲れた新鮮な魚(キスやヒラメ、カツオやマグロなど)を串にさして、水に溶いた小麦粉をまぶす。屋台の鍋でさっと油であげる調理法は、江戸の庶民が考えついたものだろう。
寿司の起源も同じである。関西地方で「箱ずし」として知られていた「押しずし」を、江戸の町人が「握りずし」に変えた。にぎり寿司に道具は不要である。「にぎり」であれば、寿司ネタのサイズも選ばない。簡便な道具(手)と保存調味料(酢)を発明したのは、江戸の職人の技である。
江戸前のそばの登場は、天ぷらや寿司とはちょっとちがっている。なぜなら、江戸っ子の気の短さ(食べ方)と調味料の存在に依存しているからだ。第2章「江戸の味の誕生」は、調味料としての醤油と出汁(鰹ぶし)の話になる。
いまでも関西がうどん優位で、関東はそばが優勢である。理由のひとつが、調味料としての濃口醤油の存在である(関西は薄口醤油)。野田でキッコーマンが、銚子でヒゲタ醤油が生まれなければ、関東圏でそばがこれほど普及するは考えらえなかっただろう。練馬大根のようなおろし大根があって、そばが食べやすくなっている。また、江戸時代にはじまる鰹節(かつお出汁)の発明がないと、そば文化は生まれていないだろう。
この章では、和食の本質が、野菜と魚、出汁の文化であることが納得できる。おにぎりもそうだが、江戸時代に、独自のファストフード文化を形成できたのは、江戸っ子の短気な気性と、お祭り好きの気質があってのことだろう。余談になるが、江戸文化(日本文化)の基底には、花火大会やお祭りごとがある。人が集まるところに屋台が繰り出し、テイクアウトて片手で食べられる寿司や天ぷらなどのファストフードが生まれた。
第3章「将軍の食卓、町人の食卓」では、武士と庶民の食事を比較している。一般的に言えば、武士の食事は保守的、庶民の食べ物は革新的と言える。格式や建前にこだわる武士は、屋台で寿司や天ぷらやそばを食べることができなかった。江戸時代における食のイノベーターは、町民だったのである。
おもしろいのは、将軍の食べる食事が、一食に「10人前」の準備があったことだ。つまり何度もおつきが「お毒見」をするので、4膳分の余分な調理が必要だったらしい。残りの6膳は、多くで分けて食べたらしい。フードロスの問題が、大奥ではすでに起こっていたことになる。ちなみに、将軍の食事リストで食材は贅沢には見えるが、あまりおいしいとも思えなかった(食に関しては別に将軍をうらやましいとは思えなかった)。
ふだんの町人の食事は、一汁三菜で質素だった。しかし、ハレの日には、屋台で買い食いをして少しばかりの贅沢を味わっていたことがわかる。成功した町民(商人)は、隠れてもっと贅沢をしていたようだが、江戸の町民たちのたんぱく源は、豆腐と納豆である。本書を読んでびっくりしたのは、コメを除くと、江戸の庶民は大豆タンパクを大量に摂取していた事実である。
第4章「大江戸グルメブーム」では、江戸庶民の「初物好き」(初ガツオ)とお茶とお菓子(砂糖と飴)を扱っている。あの時代に料理本が登場していたことは知らなかった。物資が豊富になると、庶民は贅沢になる。幕府はしばしば、贅沢をとがめる「お達し(おふれ)」を出したようだが、そんな規制はほとんど効果がなかったらしい。
第5章「究極の料理茶屋、八百善」は、江戸時代に一世を風靡した料亭のリストが出てくる。もっとも贅沢な料理を出していたのが、山谷(浅草)の八百膳という料理茶屋(料亭)だった。八百膳は単独で料理本を出したほか、料理のために玉川まで水を汲みにいったエピソードが紹介されている。
この逸話を読んで感じるのは、江戸の町の治水(水道)が、庶民の食事にとっていかに大事だったのかということである。おいしく食べるには、清潔でおいしい水が必要だったはず。鎖国の時代に、江戸を訪問した外国人(オランダ人?)が、江戸の町の清潔さに驚いている紀行文を読んだことがある。きれいな水が供給できていたことも、グルメな江戸の食文化を支えていたのだろう。
本書の結論が、第6章「日本料理の完成」に書かれている。現在の日本料理(和食)が、江戸時代に完成したことはここまで述べてきた通りである。
平安時代の本善料理(貴族の食事)が、室町時代から江戸にかけて、支配者階級と豊かな町民の中で、懐石料理(会席料理)に置き換わっていく。南蛮料理(オランダ、ポルトガル)や中国料理の影響も受けてはいるが、江戸時代に独自に発展を遂げたのがいまの日本料理の姿である。
庶民の食事は、寿司や天ぷら、そばやかば焼きなどファストフードが主流だった。その一方で、武士の食事は、意外に質素で保守的だった。経済力と生活を楽しむの気質のちがいからともいえる。
翻って、いまの日本人の食生活を考えてみよう。幕藩体制が終わって、明治維新から戦後の昭和・平成まで、日本人は洋風の食事を取り入れるようになった。肉食文化の移植である。何が変わったといえば、それまで日本人があまり食べなかった、鶏肉、豚肉、牛肉を食べるようになったことである。
たんぱく源が、大豆由来の豆腐や納豆から、牛・豚・鶏に変わった。結果として、日本人の身長も大きくなった。とはいえ、野菜の摂取量が減少して、乳製品や糖分が増えている。食事の内容変化には、プラスとマイナスの両面があるだろう。たとえば、おかずのことについてである。
副菜としての惣菜は、どのように変わっていったのか?スーパーやコンビニを見ると、20年~30年前は、脂っこいフライ物や炭水化物(ポテトサラダ、マカロニサラダ)がいっぱいのジャガイモ料理などが多かった。いまはどうだろうか?次第に、健康に良いサラダやカロリー減の副菜(おかず)が増えている。
もしかすると、現代人は江戸の食事に回帰しているのかもしれない。大豆たんぱくの見直しや野菜を中心としていた江戸の惣菜への回帰である。そこに、どのような美味しさと見栄え(料理の見た目の美しさ)を付加していくのか?江戸の食空間に、約150年前に欧州から獲得してきた料理の知恵を付加できるのか?そこにチャレンジがあるように感じる。