【柴又日誌】#27: 味噌の請け売り、かつしか小町

 小雨が降りしきる土曜日の朝。田沼商店の正面玄関に車を横づけした。気温は8度で、かなり肌寒い。雨が雪に変わりそうな気配だ。京成青砥駅から徒歩7分のところにある酒屋さんに、かみさんと味噌を買いに来ている。店主は田沼キンさん(仮名)で、御年86歳。わが家の朝食に出てくるみそ汁の素は、田沼商店のお味噌だ。

  

 先月まで、田沼商店の存在も、みそ汁の味噌の出どころも知らなかった。そもそもみそ汁はあまり得意なほうではない。子供のころに育った秋田の田舎で、塩っ辛いみそ汁をたらふく飲まされたせいだと思っている。ところが、このごろ朝食のみそ汁を美味しく感じられるようになった。味噌の味が変わったはずはない。加齢のせいで、わたしの味覚に変化が起こったくらいに考えていた。

 ある日、わが家の食卓で、田沼商店の閉店話が話題になった。事の始まりは、近所で一人暮らしをしている義理の母が、田沼商店の姉妹から10年ぶりでお味噌を買ったことだった。高砂に引っ越してくるまで、かみさんの実家は、2駅先の京成立石駅から歩いて5分の場所にあった。隣駅の青砥駅近くにある田沼酒店まで、なぜだか母娘で連れだって味噌を買いに来ていたらしい。
 かみさんの実家では、青砥の酒屋さんから、量り売りで味噌を買う習慣が50年近く続いていたことになる。それを知ったのは、今日が初めてだった。「わたしたち、田沼商店の味噌で育ったのよ」とかみさんは誇らしげに語っている。たしかに、田沼酒店の味噌は美味しい。

 何かのきっかけで、義母は美味しい味噌を売っていた商店のことを思い出したのだろう。ひさしぶりで顔を出した義母のことを、田沼商店の姉妹はよく覚えてくれていた。お互いの知り合いや親せき、ご近所さんの話に花が咲いたにちがいない。旧立石在住の母と娘は、むかしのようにふたたび酒店の常連さんに戻った。
 ”元かつしか小町”の妹さんの方を、仮に田沼ギンさんと呼ぶことしよう。彼女は姉さんのキンさんより小柄で、御年82歳。ふたりはよく似ていて、どちらも整った顔だちをしている。さぞかし若いころは美人姉妹だったにちがいない。
  
 傘もささずに車から降りたかみさんは、入店するなり一か月分の味噌を注文した。いつものことなので、分量を指示することもなかった。かみさんからの注文を受けたキンさんは、自慢の味噌樽からへらで味噌をていねいに掬って、販売用のポリ袋に移している。一杯、二杯、三杯。その様子をみながら、わたしはキンさんに向かって軽いノリで尋ねてみた。
 「味噌は自家製で、店内の味噌蔵で作っているのですよね」。かみさんから、そのように聞かされていたからだ。子供のころのわたしにとって、お醤油やお酒は土瓶を小脇に抱えて、酒店で量り買いするものだった。しかし、味噌の量り売りは経験したことがない。好奇心も手伝って、味噌が量り売りされるのをこの目で確かめてみたかった。そんなわけで、こんな寒い日に彼女の買い物につきあうことにしたのだった。
 生まれて初めて味噌が量り売りされる風景を見ることができたが、思いもかけず、姉のキンさんからはそっけない返事が戻ってきた。「いや、うちのは”請け売り”の味噌なのよ」。仕入れた商品を売ることを、”請け売り”というのだ。美しい表現だと思った。そういえば、店内に並んでいる味噌樽には、「本場信州」「仙台」「越中粒」「白麹漉」などの札が立っている。それぞれが特徴を持った産地ブランド名にちがいない。
 たしかにそうだ。その昔は別にして、小さな下町の酒屋さんが、自家製の味噌を製造できるほどの設備を抱えることはできそうにない。いまでも葛飾区には、がんもどきや豆腐などをリヤカーに積んで行商にくる豆腐屋さんがいる。夕方になると毎日、わが家の前を、自家製のとうふを積んで走る、豆腐屋さんのバイクが通っていく。
 場所が下町ではあっても、単品の売り上げが小さい味噌を、あえて自家製造して売るのはむずかしそうだ。たとえ、請け売りで味噌を仕入れるにしても、それは同じことだ。常識的に考えて、そうした商売がいずれは小さく縮んでいくことは目に見えている。
  
 かみさんが子供のころ、田沼商店はいまよりも間口が大きな酒屋さんだったらしい。ただし、酒屋を切り盛りしていたのは、美人姉妹で変わることがなかった。時代の流れで店の敷地が半分になり、いまのような間口の狭い小さな酒屋さんになった。たぶんそこが、商売の分かれ道になったはずである。
 田沼商店は、40代の女性2人が切り盛りする酒屋だった。コンビニに転換するには、夫婦ふたりで働くことが前提の「7-11の出店基準」から大きく外れてしまう。そして、小さな敷地しかない店では、コンビニを開業するのに必要な30坪の売り場を確保することができない。一方で、どんなに美味しいとは言っても、味噌売り中心の商売を継承する者が見つかるはずもない。そして、かつしか小町たちも、齢80歳の坂を下っていく。
 みそ汁の素を手に入れたわが相方は、ふたりに向かって来店の目的を説明している。「3月末で閉店になると聞いて、最後のお味噌を買いに来たんです」。キンさんは申し訳なさそうに答えてくれる。「でも、実は4月までは商売を続けようと思っているのよ。またいらしてくださいね」。店内に在庫の味噌がある限り、ふたりで商売は続けるつもりだという意思表示だった。
 陳列棚には、サントリーホワイトのマグナム瓶(1.5リットル)が3本、でんと居座って威容を誇っている。その他の商品も、通常よりはサイズが大きい。わたしは、左側の棚にある日本酒に目が向いた。生まれ故郷を代表する清酒「高清水」の一升瓶だ。
 「ぼくは秋田の生まれなので、じゃあ、高清水をいただくことにしようかな」と言ってから、あまり体の動きがよくない年寄りに代わって、陳列棚から高清水を取り出そうとした。しかし、一瞬の躊躇の後で、最初の選択を考えなおすことにした。高清水の隣に、もっと秋田らしい日本酒があるではないか!
 銘柄は知らなかったが、世界遺産の白神山地に因んだ清酒が3本、陳列棚の中段に置いてある。雪中備蓄の「白神山地の四季」という純米酒だ。ふだんはめったに買うことがない一升瓶。酒蔵は、秋田県大仙市若竹町の「八重寿銘醸株式会社」。値段は、消費税込みで1400円。2千円札をキンさんに渡したら、百円玉で8枚がかみさんの手のひらに戻ってきた。おそらくサービスで、「200円をおまけしましょう」とのことだろう。
  
 わたしが追加で日本酒を買ってくれたことに気をよくしたのか、キンさんはサービス精神が旺盛になった。わたしたちの最後の買い物が、さらに一か月先に伸びたことをうれしく思ったのかもしれない。わたしのほうをじっと見て、大きく目を見開いたキンさんは、自分たちの出自を語ってくれようとした。
 「昭和25年に、葛飾のこの場所に移ってきたのよ。その前は日暮里に住んでたけど、焼け出されてしばらくは埼玉にいたの」。埼玉県のどこに疎開したのかは聞きそびれてしまった。ふたりが焼け出されたのは、終戦直前の昭和20年3月10日で、東京大空襲の日のはずだ。わたしの補足説明を聞いて、ふたりはうなづいてくれている。
 田沼姉妹が「かつしか小町」になった年を逆算してみた。昭和26年生まれのわたしが、いまは68歳。86歳のキンさんとは年の差が18ほど開いている。青砥に移住してきた昭和25年に、キンさんが高校生で17歳。ギンさんは中学生で13歳のはずだ。

 店内の照明は少しうす暗いけれど、二人の顔は輝いて見えた。味噌売りの商売が好きなのだろう。ふたりは、実にかいがいしく働いている。少しだけ腰の曲がったギンさんを見て、わたしは13歳の少女の姿を想像してしまった。

 いまも気丈夫そうに店番をしているキンさんが、17歳で住み始めたころの青砥の街並みを見てみたい気がする。セピアカラーの家族写真に納まったふたりは、きっと愛おしく感じられるだろう。4月になれば酒屋の商売は閉じてしまう。でも、ふたりが生きてきた時の記憶は永遠に消えてしまうことはないだろう。

 ふたりのかつしか小町さんへ。長い間、美味しいお味噌を届けてくれて、ありがとう。