(その25)「優しいルール破り:52年ぶりの同期会で」『北羽新報』(2018年8月24日号)

 先日は三年ぶりで能代に帰省してきました。そして、52年ぶりで能代二中の同期会に参加しました。昨日は、本文にも登場する中川憲二先生から電話をいただきました。86歳でお元気でした。わたしたちが70歳になったら、また同期会でお会いすることを約束しました。そのとき、中川先生は喜寿を迎えられています。

 

「優しいルール破り:52年ぶりの同期会で」『北羽新報』2018年8月24日号
 文・小川孔輔(法政大学経営大学院・教授)

 

 本日のコラムは、先月お約束した通り、去る8月11日に開催された「第20期能代第二中学校」の同期会について書くことにします。
 同期会は、野球部でキャプテンを務めていた山本実君の司会ではじまりました。会場のプラザ都には、65人が参集しました。予想通りでした。加藤(祐悦)や楊(国英)のように、能代高校に進学した友人以外は、顔と名前が一致する同級生がほとんどいません。とりわけ女子が全滅でした。それでも、近所に住んでいたとか、親戚で知り合いがいるとか、何かしかのつながりはあるものです。皆さんとの会話に困ることはありませんでした。
 同期会が始まって早々、初参加の元生徒会長(わたし)は、3分間のスピーチを依頼されました。話した内容は、おおよそ次のようなものでした。

 

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 生徒会の副会長だった青山顕君(千葉県船橋市在住)の近況報告。長らくのご無沙汰のお詫びと、自分の今の仕事のこと。本日は、実母(ワカ)の89歳の誕生日。同期会への初出席は、お祝いと墓参りを兼ねてのこと。そして、誕生日を迎えた母親から聞いた話の紹介。秋田の男は短命。小中学校の同級生で89歳まで生きた男は1人もいない。ただし、女性は3人生きているので、女子は長生きの可能性があり。そうではあるが、わたしたち男子も4年間は生き延びて、70歳の古希の祝いで皆さんとまた会いましょう。
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 同期会では、A組からI組までテーブルごとに分かれて座っていました。わたしは出席者名簿を見て、すぐにあることに気がつきました。G組の出席率が群を抜いて高いことです。各クラスのサイズは40人ほどのはずです。3年G組は出席者が13人で打率3割です。他のクラスで出席者が多かったのは、B組とD組で9人。それでも二割強の出席率です。あとのクラスは4~5人で、テーブルに座っている人もパラパラの状態です。

 「G組って、どうしてたくさん集まるの?」と加藤に尋ねてみました。怪訝な顔をしているわたしにはかまわず、「先生が、まだ元気だからでねの」と秋田弁で笑って答えます。3年G組の担任は、中川憲二先生でした。わたしも3年間、理科の授業ではお世話になりました。おもしろい授業の先生で、バスケット部の顧問をしていました。

 いまでもG組は、中川先生を囲んでときどき集まっているようです。再来月も、中川先生を囲んで、きりたんぽ会を開く予定なのだそうです。「仲良しG組の謎」については、秋田空港まで車で送ってくれたドライブの途中に、加藤の告白で真相が明らかになりました。
 2年C組(担任:国語の大倉タカ先生)の秋のことだそうです。二中祭に出品するため、加藤はある作り物を準備していました。ところが、充分に時間がとれず、完成に間に合わなくなりそうでした。窮地に陥った加藤は、中川先生のところに直訴に参じます。

 「文化祭のための作り物をしたいので、理科の授業を一時間だけ休ませてほしい」と直談判します。加藤によると、「お前の言うことを信用するから。その時間は知らないふりをするよ」と、授業をさぼったはずの加藤を出席の扱いにしてくれたそうです。

 

 無事に文化祭のピンチを切り抜けた加藤ですが、これには後日談がありました。年が明けるとクラス替えがあります。文化祭事件で中川先生を慕うようになった加藤は、思い余って職員室に直訴に行きます。「先生が担任するクラスに、俺を入れてけねべが(入れてもらえないですか)」とG組入りを志願します。

 クラス担任会議で何があったかはわかりません。加藤は中川先生のクラスに首尾よく潜りに込めました。今の時代なら、先生と生徒の交渉事が発覚したら、えこ贔屓と指弾されるかもしれません。でも、牧歌的な時代でした。この程度のルール違反は許されたのでした。
 3年G組がいまでもクラス会を開いているのは、加藤の事件があったからだけではなさそうです。思うに、中川先生はもっとたくさんの規則破りに加担していたのではないだろうか。想像すると楽しくなりますが、これ以上、加藤の旧悪を追求することはやめておきます。