秋田へ帰省#3: センチメンタルジャーニー@旧能代高校跡地

 リゾートしらかみ2号「くまげら」は、12時15分に能代駅の3番線ホームに着いた。駅で降りた客は、おばさんとわたしの2人だけ。一番線のホームを離れたばかりのリゾートしらかみ3号の「青池」とすれ違う。加藤くんが改札口で待っていた。純正の秋田弁で、「よぐきだなあ(よく来てくれたね)」と出迎えての第一声。
✳︎本日のブログは、かなり個人的な内容なので、読み飛ばしていただいて結構です。stand by me の世界。

 

 加藤くんの車で、駅から2分の実家にまずは表敬訪問。一番下の弟が呉服屋の事業を継承している。この町に一軒だけ最後に残った呉服屋だ。御多分に洩れず、小川商会の商売は厳しい。畠町商店街は、串の歯が抜け落ちたようなシャター通りになっている。
 本日、89歳になる母親はまだ健在だった。2年も見ない間に、前歯がほとんどなくなっている。ただし、認知症になる気配はない。弟は1人ものだから、ワカさんに寝込まれてしまうと困ってしまうだろう。健康は大切な宝だ。
 家の処分など相談ごともある。折り入って話すべきこともあるのだが、それは翌日にまわした。出迎えにきてくれた加藤が、わたしを是非とも連れて行きたい場所があるらしい。同期会の前日は、加藤にスケジュールを全て任せてある。

 昼ご飯は近くの蕎麦屋で。更科そばを食べてから市内を巡回することになった。蕎麦屋のテーブルで、加藤が一枚の写真を取り出してきた。「第2回岩館キャンプ、昭和44、8.1〜2」とある。それから、嬉しそうに、昔の銀塩フィルムのデータをタブレットに落とした写真集を取り出した。加藤は、中高校と写真部だった。
 「こすけ、岩館でキャンプしたのは、一回?それとも二回だったけ?」。わたしは、中高の仲間たちから、孔輔を短くして、こすけ、と呼ばれていた。
 わたしたちは、高校時代は良質な悪ガキだった。高校ではクラスをまたいで、約30人ほどの緩やかな友人グループを組織していた。仲間の中心人物は8人で、高校の2.3年の二年間、五能線の岩館海岸でキャンプした。
 キャンプ場の写真に映っているのが、落合(関電工)、小熊(北都銀行)、加藤(能代市役所)、青山(銀座ミキモト)、瀬川(ガソリンスタンド自営)、小川。これに、藤島(塾経営)と楊(地元で内科医院開業)が加わる。この八人で、週末には青山の下宿先で麻雀などをして遊んでいた。
 わたしたちは、そのアジトを「おぎんちゃんの家」と呼んでいた。青山の親戚のおばさんが住んでいたからだ。良質な、と表現したのは、酒もタバコもやらなかったからだ。もちろん、北高の女子たちとも無縁だった。
 わたしたちの一部は、生徒会のメンバーだった。だから、わたしのように、文化祭の実行委員だったりもした。加藤のタブレットには、文化祭で縁日をしている法被姿の仲間の写真が残っている。

 加藤の案内で、センチメンタルジャーニー、三時間の旅へ。最初に連れられていったのは、移転前の能代高校の校舎跡地。樽小山という地名の小高い丘の上に校舎はあった。今は、その場所に市民センターと図書館が立っている。
 旧能代高校は、古い木造の校舎だった。だから、その跡に立っているコンクリートの市民会館を見ても、昔の記憶は蘇らない。わずかに記憶に残っているのは、二本松の下にあった食堂と、バッタを追いかけたグラウンドのトラックの芝生。卒業から48年後に、校庭の脇に植わっていた松の木は、伐採されずさらに大きく高く伸びていた。
 市民ホールでは、偶然だが「青春機関車展」という展示の催しが行われていた。昭和47年まで五能線を走っていた蒸気機関車86の写真展である。わたし達の3〜4年下の写真部員が撮影したもので、蒸気機関車の写真をホールでパネル展示してあった。
 写真を見学していたら、撮影していた本人たちの何人かに声をかけられた。「しんすけのお兄さんですよね」。地元の北羽新報に毎月、コラムを寄稿しているからだろう。カラーの顔写真付きなので、顔バレがしている(苦笑)。安心して能代の町は歩けないのだ。

 市民ホールを出て、昔の仲間たちが住んでいた場所を加藤の車で順番に確認してあるいた。落合の実家、楊の親父が皮膚科を開業していた場所、藤島塾の元の場所。加藤の家以外はもう誰も住んでいない。最後に、何夜も徹夜麻雀をした、おぎんちゃんの家に寄ってもらった。懐かしい家の前で写真を1枚だけ撮った。
 数年前におぎんちゃんは亡くなっている。土地と建物は売却されて、今は知らないひとが住んでいるとのこと。しこたま麻雀をした部屋は、玄関脇から上がって左に二間。4卓を囲んで、十六人で麻雀大会を二回開いた。
 「16人のビリケツが、楊だったのよ。アハハ」と、加藤はどうでもよいことをよく覚えている。本日の同期会で40年ぶりに楊に再会することになっている。きっと本人も忘れているだろう。

 市役所は2年前に新築されていた。長らくボロボロの建物だったが、加藤が退職してから新しくなった。木材をふんだんに使った立派な四階建ての市庁舎だ。
 小熊と加藤がトランプをして遊んでいたという図書館のあった場所は更地になっていた。わたしは、図書館で受験勉強をしていたから、2人が女子たちとおしゃべりにきていたことは昨日まで知らなかった。隣の敷地にはお寺さんがあったはずで、そこは深い森に変わっていた。蝉が煩く鳴いているのは変わらずだが。

 加藤が最後に車を寄せたのは、旧料亭の金勇だった。国の有形文化財に指定されている立派な木造建築である。親父もここでよく宴会を開いていた。取引先や銀行関係者を接待するためだ。大正時代に建築された料亭は、今は市役所の管轄下にある。営業はしていないが、ケータリングで食事はすることができる。
 夕方に再度、ここに来るとのこと。わたしが「どうしたの?」と加藤に聞いたら、「ここの110畳の大宴会場を今晩、貸し切ってあるのよ」と驚くべき告白をしてきた。夜の席に同席してくれるのは、3人のはずだ。加藤、瀬川、お向かいさんの長谷部さん。
 ということは、110畳の大広間で4人が宴席を設けるのだ。なんという贅沢!な2時間のコース。老舗のホームラン亭に、仕出し弁当を頼んであるらしく。

 さて、男3人女子1人の旧料亭金勇での宴会は、大いに盛り上がった。50年の歳月を経て、旧友と話して一番に驚いたのは、自分の記憶がいかに曖昧かということだった。また、当時のことで思い違いがたくさんあったことも驚きだった。
 今振り返ってみると、私たちはとてもリベラルであったことに気づく。性別も中学の出身も、親の仕事もちがっていた仲間たちと、実に分け隔てなく交際していた。そして、遊びでも勉強でも、なぜか強い絆で結ばれていた。
 日本も秋田も、経済的に強く成長していた幸せな時代に、青春を謳歌することができた。私たちはある意味でラッキーだったのだが、衰退していく今のこの町を見ると、やや物悲しい気持ちになる。
 とはいえ、今夜が本番だ。夕方には、プラザ都に60人強の同期が集まる。能代第二中学校の同期会。50年ぶりの再会で何人の名前と顔が一致するだろうか。そもそも、先生たちで生きている方は、何人いらっしゃるのだろうか?