京丹後はやはり京都文化圏

 三日間のフィールドワークを終えて、東京行きの新幹線のぞみ号に乗っている。学生たちとは、天の橋立の駅で別れて、わたしは地元舞鶴の有機農家、梶くんの未来の仕事について相談を受けていた。彼は、都市の住民を田舎で農業体験させるツアーの企画を構想している。

 

 わたしからのアドバイスは、24歳と若いのだから、すぐに起業するのではなく、もっと勉強をして経験を積んだ方がよい。焦ることはない。時間はたっぷりある。彼は性格的に明るいのだから、人脈は自然についてくる。
 問題は、自分の事業コンセプトを練るために長めの時間をかけること。長い時間、少なくとも5年から10年。その熟成期間に必要なのは、長く使える知恵と少し困難を伴う経験だろう。
 そんな話をして東舞鶴の駅で別れた。いつものように、梶くんは強くわたしの手を握った。日本人離れした風貌と朗らかな性格。道のりは長いが、まあ大丈夫だろう。

 ごく短い旅でも、人的なネットワークが何箇所かで交錯していることに気づいた。おもしろいものだ。今度の旅のきっかけは、JTBの木村さんからいただいた富山のブランドプロジェクト。そして、自らが提案しているアグリフードツーリズムの着想だった。
 まずは、偶然にも、旅の直前に舞鶴在住であることが判明した有機農家の梶くん。彼は、法政大学の同僚、田路先生からの紹介だった。2日目の午前中、インドから戻ったばかりの梶くんに連れられ、彼の農業研修先の梅本農場にお伺いした。場所は丹後半島のど真ん中。弥栄町黒部地区。
 梅本農場は、深い雪に埋まっていた。農業主の梅本さんは、55歳。この年齢の有機農業者は稀である。栽培面積は3.5ヘクタールと大きい。そして、梅本農場の出荷先は、京都にある野菜卸会社の坂ノ途中。京都大学農学部繋がりで、梅本さんは仕事を始めたばかりの小野邦彦くんの少量多品目ビジネスを支えていた。
 「大きな出荷者がいて、足りなくなったら、その不足する分を補ってくれるんです」と小野くんは言っていた。救援に感謝していた大きな生産者の1人が梅本さんだった。京都と丹後で糸はつながっていた。

 梶くんは、雪の下から8月に定植した人参を掘り出して見せた。そして、お昼に寄ったお蕎麦やさんの洗面所で、オーガニックの人参を洗って、学生たちに手渡した。「生で食べられますよ。サクサクと甘い」。本当はジュースにしたら、もっと甘くて美味しいはずだ。
 お蕎麦屋さんで、学生たちはニンジンを手折って、生のパーツにかぶりついた。わたしも知らなかった。雪の下で、大根や人参がこの季節に育っているとは。昨夜のこと、「雪の下に野菜があるので掘り出しますかね」と彼が言っていた意味が理解できた。

 もう一つの糸は、これも偶然にレンタルしたマイクロバスの運転士さんから紹介された織物工場で交錯した。特産品の丹後ちりめんの地元大手メーカーは、田勇織業株式会社。工場内を覗いた後、若社長さんから製品の説明を受けた。その最中のことだった。
 田勇織業が請け負っている仕事は、繭糸を38センチ幅、長さ13メートルの反物に織ること。この尺長に関するセリフはどこかで聞いたことがある。京都の西陣で、藤井友子さんと藤井寛さん親娘を取材していたときだった。富宏染工。
 京丹後の綾部エリアでは、手描き友禅のキャンバスになる、ちりめんの白生地ができる。ちりめんの特徴は、絹の微妙な手触りを保って絹糸を反物に織り込むことだ。
 田勇の女将さんに、工場で織られた白生地の行き先を尋ねたら、西陣の手描き友禅の名前が挙がった。そうそう、手描き友禅にとって、丹後ちりめんは欠かせない素材なのだという。

 丹後半島は、行政的には京都府に属している。関東ではほとんど知られていないが、半島の諸都市は、海の京都の一部を構成している。しかし、それだけではない。文化工芸的にも、丹後は京都の街につながつていた。織物の生産工程が京都府の中で閉じているのだ。
 女将さんによれば、「そのむかし、京都でちりめんの製造方法を死ぬ思いで学んだ、いや今の産業スパイのように、実は製法を盗んで来た先人たちが、ここで丹後ちりめんを作り始めたのです」。
 京都からちりめんの白生地を作る素材産業を奪いとったこの地には、昭和45年ごろには約1万軒の機織り屋がいた。大きな織物産業を形成していたが、いまはそれが800軒に減少している。

 しかし、この800軒が京都の手描き友禅の仕事を支えているのは、まぎれもない事実である。無くては困る裾野産業。その大事な工程が消えてしまっては、川下の染加工業が成り立たない。

 地理的に、あんがいと京都は広いのだ。その反面、人脈のひろがりとしてはごく狭いことがわかる。産業のエコシステムは、ごく狭い地域で完結している。有機農業と着物産業の共通項。そのクロスロードを丹後半島で見つけたわけだ。