【書評】 岩井克人(2015)『経済学の宇宙』日本経済新聞出版社(★★★★★+★)

 こんなにおもしろくて知的好奇心を刺激する本は、この何十年か読んだことがない。無味乾燥な学問だと感じたので、20歳の時に経済学を専攻することをやめて経営学に転じた。マルクスは、イデオロギー的に過ぎて嫌気がさした。新古典派の経済学は、単なる数学的な展開で現実性に欠けると思った。



 ところが、40年ぶりに岩井さんの経済学の本を読んでみると、その当時に学習していたことが、まったく別の意味を持っていることを知った。マルクス、リカード、ヒックス、クープマンス、ワルラス、ソロー、サムエルソン、フリードマン、ケインズなどなど。それは経済学(社会科学)に対するわたしの偏見で、不勉強に過ぎなかったことがわかった。
 岩井さんの大作を読んで、学生時代に感じていた多くの疑問が解けた。それらは、40年の時空を超えて、ごく自然な形で氷解した。最終章で、言語(文学)と法(法学)と貨幣(経済学)が、社会的な存在としての人間を扱う「社会科学の仲間」だという説明を受けたからだった。それ自身が存在として独立した体系(システム)を持っている物理学や生物学(自然科学)と違って、他者(社会)によって成り立っているのが「人間学」(社会科学)の特徴なのだ。
 そうなのだ。社会科学(経営学やマーケティング)の存在意義に、心のどこかで疑問を抱きながら、わたしは大学院時代から研究者として40年間を過ごしてきた。わたしが依拠してきた学問の存在意義は、社会にとって何らかの意味で「役に立つこと」だった。しかし、その偏見は、『経済学の宇宙』を今朝から9時間をかけて読了すると、ごくあっさりと溶解した。
 社会科学が、直接的に社会に役立つことを期待される必要はない。倫理的な自恃を保ちながら現実世界を見るという、社会科学の存在意義に対する呪縛から、わたしは生まれて初めて解放された気がする。
 
 エレガントな数学の裏側にある現実を理論的に解こうとすると、岩井さんのようなアプローチになる。たしかにそうなのだが、異国の地で(英語を母国語とする研究者たちの輪の中にあって)、それはひとが思う以上に困難な作業だったと思う。それとは逆に、無味乾燥な数式に人間的な息吹を注ぎ込まないと、岩井さんが実現したような一般理論にはならないからだ。
 英語という言葉の壁を越えて、普遍的に自説を売り込むには、抽象化された数式モデルを介さないと学会では評価されない。それも論文を量産していかないと学会の主流にはなれない。それが現代理論経済学の世界というものだ。だから、岩井さんはアングロサクソンが作った制度の中で何度もつまづくことになる。本人はそれを「転落」「没落」と呼んでいる。しかし、紆余曲折がありながらも、いつしかそのハードルを越えていった。
 1970年~1980年代の中盤までのごく短い一時期、そうした知的空間の片隅に自分(小川)がいたことを、岩井さんの書籍が懐かしく思い起こさせてくれた。わたしは、本郷の入門ゼミで、浜田宏一教授のクラスに所属していた。恥ずかしい話だが、わたし以外のゼミ生たちは、岩井さんや奥野さんや石川さんと同じように、それから4~5年後に米国に留学している。
 いま東大を定年退官しようとしている経済学部の教授陣たちである。吉川洋、植田和男、伊藤元重などが、浜田ゼミの主要メンバーだった。そして、わたしだけが、経営学(マーケティング)に転身した。商人の末裔だったわたしは、経済学の抽象性と商人蔑視の風潮に耐えられなかった。だから、岩井教授が、商業資本の立場を中立的に記述したり、重商主義の復権について語る様は、正直うれしかった。

 話を本書の内容に転じることにしたい。
 この本のおもしろさは、二通りであるように思う。ひとつは、ひとりの経済学者(岩井克人教授)の個人史と研究史を重ねあわせた「読み物」として楽しめることである。ひとりの読者としては、岩井さんが東大の先輩教授陣(わたし自身も授業を受けた宇沢弘文氏、小宮隆太郎氏、根岸隆氏など)に助けられて成長していく様や、米国の大学での昇進に対する焦燥感を追体験することができた。
 岩井さんが一時期を過ごしたカリフォルニア大学のバークレイ校に、わたしも1982年から1984年まで2年間留学していた。そこでは、一流の学者たちの行動原理や論文作成の過程、そして学者コミュニティ内での交流の様子を垣間見ることができた。精神的には自由でありながら、不思議と過酷な競争社会で、互いにポジションを奪い合う出世競争は熾烈だった。
 いまでも鮮烈に思い起こす光景がある。あるセミナーでプレゼンに失敗した女性准教授が、翌年からはそのポストを追われた瞬間を見たことである。彼女は離婚が成立したばかりで小さな子供を抱えていた。わたしたちの前で、人目をはばからず、おいおいと泣いていた。あるとき、アジア系の大学院生が、指導教授からいまでいう「セクハラ行為」を受ける現場に遭遇した。
 聖職者のように見える研究者は、米国ではしばしば金の亡者であることもある。ごくさりげない挿話ながら、シカゴ学派の総帥であるミルトン・フリードマンが、自由放任主義者としての立場通りに、現実世界でもやはり守銭奴であったことが暴露されている。
 正統派の経済学者らしく、岩井さんは、ほとんどの人間評価については中立的に書いている。唯一主観的に描かているのが、新古典派の権化ともいえるフリードマンの人となりについてである。岩井さんの人間的なやさしさを感じる一コマではある。

 最初の理由が長くなったが、本書の二番目のおもしろさは、どのようにして経済学の諸説が誕生し、どのような理由で理論的な進化がもたらされたのか。その動的なプロセスについて、その誕生や進化の過程を社会的な背景を含めて記述してあることである。このあたりの書き方は、さすが東大で経済学説史を担当する教授だけのことはある。
 ふつうの経済学者は、理論を論理的に展開することで事足りるとする。ところが、岩井氏の書きっぷりは、理論が成立する時代背景やその哲学的な根拠にまでさかのぼっていく。「なぜ」に対する歴史的な考察を織り交ぜているので、難解な経済理論が直感的に理解できるのである。また、読者にとっては納得性が高くなる。
 わたしにとって、かつて経済学が空虚に見えたのは、理論構成が論理的にすぎてドライだったからだった。理論経済学は、少なくとも経営学の一分野であるマーケティング(商学)に身を寄せることになる若手研究者には、血の通っていない学問に見えたのである。
 しかし、本書の印象は、それとは対照的だった。対象となる学問の中心に、東インド会社で植民地経営を担当している船乗りの元締めが厳然と存在していた。シュンペーターの経済発展の理論の説明からは、起業家的な人間の息吹を肌で感じ取ることができた。ライティングスタイルも、小説風である。

 最後に、ひとつの予言をしておきたい。
 もしも岩井さんが、あと5年間ほど研究生活が続けられるならば、つまり75歳くらいまで生きてくれれば、日本人としてはじめてノーベル経済学賞を受賞する可能性があるのではないだろうか。主流派経済学からは異端な存在ではあるが、経済学の一般理論を、言語学や法学と結びつける方法論や思考様式は、経済学の歴史の中で異彩を放っている。「統合理論」を評価する時代が、10年以内に到来する気がする。
 マルクスもケインズもシュンペーターも、あろうことか!アリストテレスまでも自らの掌に入れてしまう「知の巨人」の業績は、それほどユニークである。岩井氏の師匠であり理論的な導き手であった宇沢弘文氏(元東京大学教授で、社会共通資本の提唱者)は、新古典派理論への学問的な貢献と良心的な急進思想への傾斜(ラディカリズム)のはざまでもがき苦しんでいた。
 公害問題を論じていたとき、自動車には絶対に乗らず、大学へは自転車で通ってきていた。その実践は痛ましくさえ見えた。その姿を経済学部の学生として、わたし自身も不思議な思いで眺めていた。
 弟子の岩井氏は、理論的な統合を通して「宇沢問題」を克服している。赤門の卒業生であり、経済学部の後輩として、その日(ノーベル経済学賞)が来るのを楽しみにしている。経済学の核心(取り組むべき問題)が変わってきている気がする。

<付記>
 岩井さんの理論の特徴は、通説の間違いを突いて、二つの相反する主張(たとえば、貨幣名目説と貨幣商品説)を共通理論で「統合」しようとすることだ。現実の経済の動きをそのまま記述するのではなく、どちらかといえば「概念定義」に関する枠組みを提示して現実を抽象化する。その説明のために、経済学の外側の概念ツールを活用する。だから、岩井理論の思想的な守備範囲はとても広い。概念的なファウンデーションは社会科学全般にわたっている。
 もうひとつの特徴は、社会科学の存立基盤を「社会的な存在」として人間に求めていることである。株式会社に関する分析では、会社はヒトでありモノであるというという「2階建て理論」を提示している。
 それなどは、社会科学の方法論が、他者から承認されてはじめて存在する人間性を基礎にしているという確信から来ているように思える。だからこそ、シカゴ学派に対する評価が厳しいのだろう。