ブルートレイン上野発、寝台特急列車「あけぼの号」での帰省

 3月14日(本日)をもって、すべてのブルートレインがJRの線路上から消えた。「北斗星」が最後にホームに到着する報道を複雑な思いで眺めていた。しかし、日本国の鉄道の歴史にとって暗いニュースばかりではない。北陸新幹線が金沢まで延伸したり、東海道新幹線の最高時速が285キロに加速している。



 昨年の春(6月)、次男の真継とふたりで、本日引退したブルートレイン「北斗星」に乗った。青函トンネルが開通して、津軽海峡を渡る連絡船(青函連絡船)が引退したあとを引き継いだのが、特急寝台列車の北斗星だった。1988年のことだそうだ。
 札幌までの下り列車に乗った時に感じたことだが、北斗星の車内の施設は、たとえばトイレや寝台などがずいぶんと傷んでいた。昔ながらのクラシックな造作はそれなりに趣きはあるのだが、サービス施設としてはすでに限界に来ていたのだろう。
 たとえ軽いメインテナンスを施しても、羽田発ー新千歳行きのLCCの登場で、北海道行きの飛行機運賃はずいぶん安くなっている。それと対抗するためには、乗客の確保がかなりむずかしくなっていたのだろう。
 ビジネス向けや帰省する学生たちのためには、とうの昔に夜行寝台の時代は終わって、乗り物としては完全に用無しになっている。それというのも、津軽海峡をわたるために、おそろしく時間がかかるからだ。
 ブルートレイン引退の報道を見て驚いたのは、その歴史の短さである。北斗星は、それこそかなり昔から走っている感じがしていた。ところが、運行の歴史はわずか28年間である。それより、学生のころにお世話になったブルートレイン「あけぼの号」のほうが、長い歴史を持った列車だったのだ。

 あけぼの号は、すでに一年前(2014年)に引退している。もともとが「臨時」特急寝台列車だったことは、今日はじめて知った事実である。だから、まだ臨時列車として乗る機会はあるのかもしれないなどと空想してしまったりする。あまり期待しないほうがいいのだろうが、2015年1月4~5日には、上りの臨時列車が走ったらしい。
 「あけぼの」の登場は、1970年である。わたしがなぜこの列車に郷愁を感じるかといえば、大学に入学した年(昭和45年)に、あけぼの号が東北本線ー奥羽本線にデビューしたからである。それまでの上京の主たる手段は、昼の特急列車「いなほ号」だった。こちらは、上野始発で秋田駅が終点だった。
 亡くなった親父によく食堂車に連れて行ってもらった。いつもカレーライスかビフテキを食べさせてもらった。「日本食堂」!なつかしい車内レストランの名前だ。テーブルの白いクロスカバーと、若くてきれいなウエイトレスのお姉さん。
 
 いなほ号にはいつのころからか、わたしは乗らなくなった。親父が糖尿病で動けなくなったころからだろうか? いや、別の事情のような気がする。
 いなほ号とちがって、あけぼの号は上野から秋田を通り越して、さらに先の弘前(青森)まで行っていた。秋田県北(能代、大館)に住んでいる学生やビジネスマンには、いなほ号よりあけぼの号の方が便利だった。秋田駅でローカル急行列車の「鳥海」に乗り継ぐ必要がなかったからだった。
 わたしも、とくに特別な事情がなければ、いなほ号より、あけぼの号を利用していた。そういえば、いなほ号には食堂車がついていたが、あけぼのにはあったのだろか?記憶が不確かだ。

 当時のことを、事細かに思い出してしまった。
 お金のない学生だった。当然のことながら、A寝台(個室)の料金は払えるわけがない。B寝台(開放式4人部屋)を利用していた。B寝台の車両には、廊下側に壁に収納できる折り畳み式の簡易な椅子がついていた。列車に乗り込んでから眠たくなるまでは、その座椅子に腰かけて、東北本線の外に広がる夜のしじまを、じっと飽きずに眺めていた。
 白状してしまうが、いまでもあの汽笛の音を思い出すと、ぽろぽろと涙が出てくることがある。若かりしころ、とりわけ結婚前の大学院生だったころ、将来に不安を抱えながら生きていた自分がすごくいとおしくなるからだ。
 同級生は官僚や銀行マンとして、あるいは一流商社に勤めて生き生きと働いていた。わたしはといえば、本を読むのが好きで、朝起きが苦手なばかりに、まちがって大学院に進学してしまっていた。研究者としての才能に自信など持てるわけもなく、教員になれるかどうかもわからず、やっぱり安全に公務員試験でも受けておけばよかったと後悔したこともあった。

 いまだから言えるが、将来は真っ暗闇だった。そうだった。
 上野駅から東能代駅までの夜行列車も、真っ暗闇の中を走っていた。秋田までの帰省の旅は、片道10~11時間。わたしが大学生のころ、あけぼの号は一日2往復。早いほうのブルートレインは、夜10時に上野を出て、朝8時ごろに東能代駅に到着した。実家に帰ってから、朝の歯磨きをして、もう一度寝てしまった。怠惰でわがままなボンボンだった。
 ただし、若いころは、いいところもあった。いまのように、大酒を飲んで階段を12段も転落することなどなかった。まじめな学生だった。ピリピリはしていたかもしれないが、向学心に燃えていた。
 振り返ってみれば、それだからこそ、心身ともにわりに頑健ないまのわたしがある。かなり厳しい環境に遭遇しても、わりに楽な気持ちで耐え凌ぐげるのだと思う。あのときのえも言われぬ息苦しさが、いまのわたしの粘り強さを育んでくれた。

 ブルートレインの車窓から、通過していく駅名を確認することに飽きたころ、列車は福島駅から奥羽本線に入っていく。矢板峠を越えるあたり、人の動きがなくなった夜中になってから、最後の廊下客はそろそろとB寝台の上段にもぐりこむ。
 なぜだか、寝台車はいつも上段だった。怠慢でぎりぎりまで予約をしなかったか、あるいは上段の方が値段が安かったからだろう。傷んだ黒革の靴を抜いで、二階に向かって細いアルミ製の梯子に手をかける。低く迫った天井に頭を打たないよう、天井までの距離を確かめた後で、誰か他人の体臭がかすかに残っている薄い毛布を体に引き寄せる。
 頭上のランプを消して、目を閉じてみる。時速80キロで走っている列車の車輪が、線路の継ぎ目を叩く音が耳に残って、すぐには寝付けるはずもない。
 がたん、ごとん、がたん、ごとん、がたん、ごとん、、、、
 
 閉じた目の瞳の奥で、静かに自分の未来を望んでみる。
 上野発の下り列車(あけぼの2号)と、東能代発の上り列車(あけぼの1号)には同じ回数を乗ったはずなのに。いまでもまぶたに蘇ってくるのは、下りのB寝台で眠っている沈黙の時間ばかりだ。すぐに取り出しができる物悲しい記憶が、下り電車のそればかりなのはなぜだろうか? 上り列車の寝台車両で窓際に腰かけていたはずの自分は、いまの記憶からは完全に消えてしまっている。
 帰省するわたしと、ふたたび上京して行くわたし。別人格に見えるふたりのちがいは、故郷でエネルギーをチャージされたあとの、希望の重さと輝きの違いなのだろうか。
 そうだとしたら、上野発のブルートレインのあけぼ号は、傷ついたわたしの心をやさしく労わってくれていたことになる。寝台特急列車の車輪が線路のジョイントの上をまたぐときに放つ打刻音は、あのころのわたしにとっては子守唄だったのだ。