先週になって2羽が加わり、調整池の白鳥は13羽になりました。飛来したのは成鳥です。これで幼鳥が7羽、成鳥が6羽になりました。どうやら三家族のようです。例年そうですが、餌場の争いで、白鳥の家族は仲たがいをします。鳥の社会も人間の社会と同じようです。
「白鳥の会」のひとたちが、毎日、古米などの餌をまいています。見ていると、餌のほとんどは、小さなマガモが寄ってきて食べています。白鳥はどちらかといえば、ゆったりめに動いています。がつがつ餌を求める必要がないからなのでしょう。
おこぼれにあずかっている鴨の方は、競争相手がものすごく数も多いので、とにかく必死です。数えたわけではないですが、白鳥の100倍はいるようです。1000羽かそれ以上の数です。しかも、小さい分だけ、はしっこくて動きが素早い。
白鳥の会の餌まき係りの人は、13羽の白鳥をめがけて餌を放ります。だから、白鳥たちは絶対確実に餌にありつけます。マガモたちは、餌の配布対象者(主役)ではないから、こぼれた餌を救わなければなりません。かれらはかなり必死です。
この風景は、人間社会の縮図のようにも見えます。保護されている血統の良いグループ(富裕層)と、そのおこぼれにあずかって暮らしているふつうの庶民(一般市民)。
その外縁には、フェンスで鉄条網が貼られているので入って来れないが、さらにこぼれてくる餌を虎視眈々と狙っている黒いカラスなどがいます。そんな人種、人間社会にもいますよね。
でも、人間が餌をまいている間、カラスは絶対に池に近づいてはきません。こちらは、火曜日と金曜日のごみ当番を狙っていいます。岡の上で、効率よく仕事をしています。
ところで、シベリア大陸から飛来する白鳥を取り巻く生態系(白井市の場合)は、20年ほど前に誕生したものです。わたしたちが30年前に移住してきたとき、清水口調整池は白鳥不在の単なるため池でした。
あるとき、数羽(一家族)がこの池に飛んできました。白鳥が好きな人間たち(「日本野鳥の会」のメンバー?)が集まって、餌を与える会を組織したようです。まずは掲示板が設置されました。
黒板には、毎年の飛来数と飛来日が記録されるようになりました。そして、いつのころからか、釣り人のハリで傷ついた白鳥のケアを訴える写真などが貼られるようになっていきました。
このような白鳥池は、日本全国に点在しているはずです。どの池でもきっと、地域の住民たちが「白鳥の会」を組織するだろうことは想像に難くありません。そこではまた、人間の生態系も生まれてきます。
白鳥の会の運営をめぐって、内輪もめなどが起こりそうですよね。いや、きっとわが町内会でもめごとが頻発するように、喧嘩がたえないでしょう。そのうちに派閥ができたりして、主流になれない不満分子たちから脱会者が出ます。
わたしは、ジョギングで池の周りを走るときに、白鳥の会のみなさんが、一生懸命に白鳥めがけて餌を与える姿を眺めています。優雅に池に浮かんでいる白鳥を見るのは好きなので、本当に彼らの仕事に感謝する半面で、白鳥のことも考えたりします。
「人間に餌をもらって生きていて、あの白鳥たちは楽しいのだろうか」と。結局は、自立していないわけです。食べさせてもらっているのです。周囲にフェンスが張られた池は、大きな自然の中の動物園のようなものです。犬やカラスは近づけません。白鳥もマガモも、人間に守られているのです。
かつては、フェンスに大きな穴が空いていることがあって(バスやブルーギルを狙うために、釣り人がペンチで穴を空けたのでしょう)、池の周囲で野犬がキジを追いかけまわす光景に遭遇したこともあります。
20年前に白鳥が池に来てからは、フェンスの穴が完全にふさがれました。清水口調整池は、アヒルなどの鳥たちにとっては、サンクチュアリーに変わったのです。
そうなのです。人間社会でも、完全に保護された集団に混じって、苦労してはいるが自立している人たちもいます。他力本願ではなく、自力で必死に生きています。だから、白鳥によりも、マガモにシンパシーを感じてしまいます。
正直に言えば、わたしは池の周りに鉄条網のフェンスなどは欲しくない。ランナーとしては、気持ちよく水際の小道を走りたいわけです。が、それでは白鳥が生息できず、幼児が池に転落することになるかもしれません。
釣り人が自由に池に入ってくると、たしかに釣り針などが散乱して池が汚れそうです。これって、痛し痒しなのですね。自由と規制、自立と保護。これは、永遠のテーマです。池の白鳥を眺めて、いつもそんなことを考えながら走っています。