「マクドナルド本」のリライト作業がピークを迎えている。本音を言えば、自分の書いた原稿に手を加えて完成度を高める作業は、実は苦痛以外の何物でもない。それでも、このプロセスを通らないと、「一流の作家」になれないことはわかっている。だから、覚悟を決めて単調な修正作業に耐えている。
金沢在住の北陸の不動産王、デスタンの北本さんが、偶然にも、日本マクドナルドの創業者、藤田田氏に会っていたことを、執筆中の本に採録することにした。10月発売の『マクドナルド 失敗の本質(仮)』の第二章「マクドナルドのビジネスモデル」の最後あたりに挿話として入れるつもりである。
以下は、その後の修正記事である。個人的にもいい話だと思う。さきほど、北本さん本人と話したのだが、「これが藤田田氏の再評価につながるといいね」と。
<藤田田氏の温情主義>
藤田氏のビジネス思考を紹介した『ユダヤの商法』(光文社)は、当時の大ベストセラーになった。また、藤田氏本人も、著作の中で自分を「銀座のユダヤ商人」と豪語するほどだったから、世間一般からは、「拝金主義者」と思われていた。
そもそも、東大在学時代に進駐軍の通訳をして資金を稼ぎ、卒業後は就職をせずに、銀座で宝石やバックなどの輸入雑貨商を営んでいた。2004年に病気で亡くなるまで、藤田氏は、どこか胡散臭くて怪しげな経営者のイメージを持たれていた。
ところが、フランチャイジーの採用基準や、社員に対する厚遇の様子を見ると、経営者としての藤田田氏は、かなり温情主義の側面を持った人物だったことがわかる。そのことを確証できる、あまり知られていないあるエピソードを紹介する。
わたしと同年齢で、中国から榊(さかき)を輸入している商社「デスタン(株)」(本社、石川県金沢市)を経営している友人がいる。北本政行さんという社長さんで、パリ大学に在学中(1971年~1975年)、田中角栄元首相の政務次官だった平弘氏の通訳を現地で担当していた人物である。いまは北陸の不動産王でもある。
北本氏は、27歳の時(1979年)に、偶然にも藤田田社長に会っていた。ソフトバンクの創業者である孫正義氏が、藤田田社長に会いに行く前のことだったらしい。フランスから帰国した北本さんは、地元で飲食店や喫茶店(「スタバ」のようなコンセプト)をやっていたが、商売はあまり思わしくなかった。マクドナルドで成功していた藤田さんに教えを乞いに会いに行ったのだという。
面会の席で、北本氏が「自分は中学生のころ、自分が読みたい本を買うために新聞配達をしていた」と話すと、藤田さんが「わたしも、毎朝、銀座の界隈の100軒ほど新聞配達をしているよ」と打ち明けてくれた。日本マクドナルドもうまくいっていたし、本業の藤田商店も雑貨の輸入で大儲けをしていたはずである。
すでに50歳を超えていた藤田さんが、銀座で新聞配りをしていたことも驚きだったが、その先がさらに驚愕だった。実は、新聞配達で得た現金(それほどの金額ではないだろうが)は、そのまま封を切らずに、知り合いの交通遺児に渡していたというのだ。
北本さん曰く。「藤田さんは、”銀座のユダヤ商人”とご自分を偽悪的に称していたが、ほんとうは善人だったのではないのか」。藤田時代のマクドナルドは、後期には経営的に行き詰っていたが、創業以来の社員たちには温情的だった。日本的に経営をしていたことが知られている。
藤田田社長の知られざる一面を、北本氏に教えてもらったのだが、ご本人の発言や世間からのイメージとはちがって、藤田氏の本当の姿は「好人物」だったような気がする。